第9話 子猫の幸せ
「……ぷ」
「? どうしたんだ? 結衣姉?」
その日も、ふたりは夜の世界をバイクで走り続け、太陽の光で輝く海へ到着した。
ふたりが初めて出会った日に見た、美しい光景。
あれから、咲希はもう何度も、この海を訪れ、結衣と一緒に見ていた。
砂浜に停めたバイクのそばに並んで座って、朝日を見ている。
突然、思い出し笑いをした結衣に気づいた咲希が、首をかしげる。
まだ笑いがおさまらない様子の結衣は、なぜかどこか恥ずかしそうに、けれどとても楽しそうに口を開いた。
「いや、咲希がわたしを結衣姉って呼び始めた時のことを思い出してさ」
「? ……~~」
しだいに、咲希の顔がわずかに赤くそまる。
それは、今と同じように、夜明けの朝日を海辺で見ている時のことだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「? どうした? 何か言いたいんだろ?」
砂浜に並んで座り、澄んだ光で輝く海を眺めていたら、急に咲希の様子がおかしくなった。
なんか言いたそうにしているな……と思っていたら、急にこちらを振り向いて口を開いて……でも、開いたもののすぐにその小さな口を閉じてしまった。
……でも少しすると、また開いて……何かを躊躇っている様子を見せる咲希に、結衣は首を傾げる。
けれど、やがて何かを決心したのか、咲希はようやく言葉を発した。
「――結衣さんのこと、結衣ねえって呼んでもいいかっ?」
「……」
顔を真っ赤にした咲希の言葉から、数秒後……結衣は、噴き出した。
決意を秘めた瞳で何を言うかと思ったら――
「あっはっは! ……なんだ、そりゃ。お前、何言ってんだ!」
そのあまりにも微笑ましい可愛らしさに、結衣は思わず腹を抱えて大きな笑い声をあげてしまう。悪いと思いつつ、笑いが止まらない。
「! ……わ、笑わなくてもいいだろ!」
ショックを受けたような顔をして、いっそ、涙すらその瞳に浮かべる咲希を見て、こりゃまずったと結衣は反省する。
どうにか意思の力で笑いをひっこめ、少し拗ねたような顔をしている咲希に話しかける。
「悪い、悪い。けど、なんだ? 急に、どうした?」
「……別に、意味なんてねーよ。いやなら、いい」
そして、さらに子供のように拗ねた咲希は、体育座りになってしまう顔を隠してしまう。
意味なんてないと言っているけれど、要は甘えているのだ。そんな咲希の気持ちが嬉しくも恥ずかしい。
結衣にも悪気はなく、むしろ咲希への愛おしさと微笑ましさによって生まれた笑いなのだが……咲希からすれば心の底から望んで勇気を出した一大決心だったのだ。
拗ねてしまうのも無理はなくて、そんな姿も可愛くて、だから結衣は、微笑みながら、咲希の望む答えを返す。
「別に、いやじゃないよ。そう呼びたければ、呼べばいい」
「――ホントかっ?」
途端、嬉しそうになる。
本当に、子供みたいだと思った。
「ほら、呼んでみ?」
「え?」
喜んだのもつかの間。
どこか悪戯めいた表情を嬉しそうに浮かべる結衣の言葉に、咲希は言葉をなくす。
「結衣姉って呼ぶんだろ? わたしのこと」
「~~」
咲希の顔が、どんどん赤くなる。
自分から言ったくせに、いざ呼ぶとなると、顔を真っ赤にして躊躇ってしまうなんて、(かわいすぎかこいつは)と結衣は内心でにやにやしてしまう。
そんな咲希をさらにからかいたくなって、結衣は急かす。
「ほら、どうした? 早く、呼んでくれよ」
「……ぇ」
「?」
「結衣姉」
「――」
真っ赤な顔で、潤ませた瞳で上目遣いに、そんな風に呼ばれた。
「……」
すると、一転。
どうしてか、今度は結衣の方も顔が赤くなってしまい、そのまま固まってしまう。
一瞬、どきっとしてしまった。
……。
しばし、そのまま見つめ合ってしまう。
さっきまで忘れていた波の音がやけに大きく響く。
海の向こうから世界を照らす日の光が、咲希の金色の髪をきらきらと輝かせて……海よりも綺麗だな、なんてことを考えてしまう。
お互い目を離せない時間が続き……やがて、結衣の方から観念したように視線を逸らす。
「……思ったより、こっぱずかしいな」
「……やっぱ、駄目か?」
「いや、いいさ。お前の好きにすればいいよ」
結衣は頭の後ろで両手を組んで、そのまま、後ろへ。砂浜へ身を横たえた。
なぜそんなことをしたのかというと、恥ずかしくて咲希の顔を見られないからだ。
思った以上に恥ずかしかった。
なんだこれ? と結衣は心の中で思わず笑ってしまう。
「……ありがと。結衣姉」
「~~」
追撃。
その声は、結衣の心にクリティカルヒットした。
また、結衣姉と呼ばれて、少しかゆくなる。
ホントこいつ、いい声してんな。
そんな声でそんな可愛い声出さないでくれと結衣は思う。
結衣はむずむずする感覚に戸惑いながら、でも同時に素直に嬉しかったりもして……ちらりと咲希に視線を向ける。
目があった咲希は、ぴくっと身体を震わせ、逃げるように視線をそらす。
その真っ赤な耳を見て、結衣はまた笑いが生まれてしまうのだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「いつの話してんだ!」
そんな恥ずかしい思い出を思い出した咲希は、顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
「いや、けっこう最近だろ?」
咲希と出会ってまだひと月ほど。
その間、咲希は学校に行かなくなり、家にも帰っていない。
結衣と適当な場所で野宿したり。
不良になる前から結衣のことを可愛がってくれているおばちゃんの定食屋でバイトしたり。
バイクで遠くまで行って綺麗な景色を見たり、ゲーセンで遊んだり。
夜はバイクで疾走し、他のチームともめれば喧嘩したりした。
世間一般から見れば、批判されるような生活。
それでも、咲希は笑顔だった。
ずっと、楽しそうだった。
ちゃんと家に帰り、学校に通っていた時よりも。
「ホントはお前は可愛いな」
「~~~~!」
結衣の言葉でさらに顔が真っ赤になった咲希は、ぷいと顔をそらし、海へと視線を逃がす。
そんな様子もまた可愛いとか、気づいていない様子だ。
これ以上からかうのもかわいそうなので、結衣はごろんと砂浜に寝転んで、青空を見上げる。
今日もいい天気だ。
……。
静かになり、波の音が耳に届いてきた。
心地よい潮風に身を任せながら、静かな時間を過ごすのも、心地いい。
その時。
ふと、海沿いの道の方から、楽しそうな声が聞こえてきた。
なんとなく、目を向ければ、そこには登校中の女子学生たちがいた。
仲がいいようで、みんなでふざけ合いながら、笑いながら、登校している。
……ああ、もうそんな時間か。
今日は、平日。
そして、今は、通学や通勤の時間帯だ。
「……」
結衣と同じように、咲希も登校する女子学生達を遠目に見ていた。
その瞳には、明らかに寂しさが見て取れた。
「……なあ、結衣姉」
「……なんだ?」
「……わたしたちは、どうして、こうなったのかな?」
ざざあん、と。
ひときわ大きな波が、押し寄せてきた。
音と共に、砂浜を撫で、咲希と結衣の傍まで迫った。
ああ、やっぱりか。結衣はそう思う。
結衣は咲希に、ちゃんと家に帰れと。学校に行けと言ってきた。
まっとうな世界で生きた方が幸せになれると思うからだ。
それでも、結衣のそばを離れず、家にも学校にも帰らなかったのは咲希だ。
それでもやっぱり……本音では、ちゃんと生きたいと思っているのだ。
「あんなふうに、普通に学校に通って、普通に友達作って……どうすれば、あんな風にできたのかな?」
自分には、できなかった。
ちゃんと学校に通っていても、友達なんて、ひとりもできなかった。
それどころか、いっぱい、いっぱい、いやな思いをした。
つらかった。
いっぱい、泣いた。
家にも、居場所なんてなかった。
だから。
自分は愛されない人間なんだとわかった。
だから、家族なんて、いらないと思った。
自分は友達を作ることのできない人間だと知った。
だから、友達なんていらないと思った。
でも、本当は……。
「わたしたちと、あいつらと、何が違うんだろ? ……わたしには、わかんないや」
楽し気に笑い合いながら通学路を歩く女子生徒達。
その眩しさから目をそらすように咲希は自分の膝の間に顔をうずめた。
たまらなくなって、結衣は優しく、咲希の頭に手を置いた。
そうして、そのまま、自分の肩に抱き寄せる。
そして、励ますように言葉をかける。
「お前にだって、できるだろ。お前は、わたしよりもまともなんだ。その気になれば、普通の生活も、普通の友達も、すぐに手に入るだろ。……きっと、恋人だって」
「……恋人なんて、いらねー」
「そうか? できたら、きっと楽しいぞ?」
「いらねーったら、いらねー! 想像できねえよ、そんなの。……友達も、いらねー」
本当は望んでいることと正反対のことを、咲希は強がりで口にする。
そんな姿が、とても痛々しかった。
「……わたしには、結衣姉がいればそれでいい」
そんな風に言ってくれるのは嬉しい。
でも結衣は、咲希の好意以上に、見てみたいものがある。
だから、ちゃんと伝えたい。
「咲希。お前がわたしを慕ってくれるのは嬉しいよ。でもな、わたしを言い訳にして逃げねーでくれよ」
一瞬、咲希の小さな身体がぴくりと動く。
それでも、その小さな身体を結衣に預けたままだった。
「お前なら、いつか必ずできるよ。友達も、恋人も」
「……」
「まだ戻れるだろ? 家にも、学校にも」
咲希は、ちゃんと高校に入学している。
ほんの数回、出席しただけであとは行っていないが……それでも、まだ間に合う。
「学校なんて行きたくない。学校、つまんねー」
咲希は、心底嫌そうにそう言う。
本当にそうなんだろう。
でも。
「わたしはセンコー殴って退学になっちまったけど……実は、ちょっと後悔してんだ」
結衣は、自戒するように笑う。
「お前は、ちゃんと青春しろよ、咲希」
「青春なんて、いらねー。わたしには結衣姉だけがいればいいって言ってるだろ」
何度言葉を重ねても、やっぱり咲希は、いつも同じことを言う。
今はまだ無理かと、結衣は苦笑するしかない。
「……まったく、可愛すぎる妹分にも困ったもんだ」
結衣は、咲希の頭を撫でる。
「……へへ」
優しく頭を撫でられて、咲希は笑う。
本当に、幸せそうに。
――そう、咲希は、幸せだった。
家族と仲が悪くても、孤独でも、この世界に居場所がなくても。
結衣が、大切な人がそばにいてくれるだけで、何も怖くなかった。
こんな幸せが、これからも続いていくのだと、信じていた。
「咲希、覚えとけよ」
……だから、咲希には、信じられなかった。
「お前は、ひとりじゃない」
結衣が事故に遭ったのは、それから間もなくのことだった。
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