第2話 子猫から目を離してはいけない
「ひとまずは、大丈夫だよ。よく連れてきてくれたね」
「――あの、本当に、ありがとうございます」
個人経営の小さな診療所。
清潔な待合室で、ヒロは頭を下げた。
礼儀正しいその様子を見て、恰幅のいい中年の女医は笑った。
「はは、若いのにそんなにかしこまるもんじゃないよ。……ただ、そうさね。あの怪我は、普通の怪我じゃないね」
「――」
女医の言葉に、ヒロの身体がすくむ。
それは、なんとなく予感していたことだったから。
「明らかに、誰かに殴られたり蹴られたりした痕だよ。縛られていたんだか、手首には縄の痕もあった。……あの切り傷も、もしかしたらナイフかなんかで切られたもんじゃないかね?」
「……」
「まあ、あの見た目だからね。その繋がりなんだろうね、きっと」
女医の言う通り、助けた少女の髪や服装は、いわゆる、チーマーやヤンキーと呼ばれる類のもの。
カツアゲ、暴走、乱闘……そんな言葉が飛び交う世界に生きている人間の姿だった。
……あれから、スマホの検索機能を使って最寄りの診療所を探し当てたヒロは、その中で、ネット上の評判もよく、診療所の建物も清潔なところを選んだ。
個人経営の診療所の中には、自宅も併設しているところがある。
ここも、それの例に漏れず、それが幸いして、時間外診療であるにも関わらず、診てもらうことができた。
今、少女は怪我の手当てを受けて、点滴をされた状態で、隣の部屋のベッドで眠っている。
女医の言葉によれば、このまま安静していれば問題はない。
「まあ、怪我もそうだけど……あの子、しばらくまともに食べていないんじゃないかね? 栄養失調の気も見られるし、貧血も起こしてる。そのせいで、動けなかったんじゃないかねえ」
「……」
「あの子、あんたの友達かい?」
「いえ、あの、さっき、雨に打たれながら倒れているところを見つけて……」
「……救急車は呼ばなかったのかい?」
「救急車だけは、呼ばないでくれと言われて……」
「それでここまで担いできたのかい? なんと、まあ……」
そこで、女医は大仰に目を丸くする。そして、笑った。
「あんた、女の子だろ? 力あるねえ」
「いえ、僕は……男です」
「なんだって?」
さらに、女医は目を見開いた。
だが、ヒロの様子を見て態度を改める。
「……ああ、驚いて悪かったね。そうかい。まあ、それなら、納得だね」
そこで、少女が眠る部屋の扉を見つめながら、女医は口を開いた。
「本音を言うと、厄介ごとには巻き込まれたくないんだけどね。おかしな連中に押しかけられちゃたまらないからね」
「……すみません」
「ああ、そんなつもりで言ったんじゃないよ。あんたが謝ることじゃない。あんたはあの子を助けたんだ」
「……はい」
「まあ、もう大丈夫だから。あんたは安心して帰りな。あの子の面倒は、わたしがちゃんと見るから」
「あの、診療代を……」
「ああ、あの子が目を覚ましたら、ちゃんとあの子の家族に連絡をとるから大丈夫だよ。ほら、玄関まで送るよ。傘はあるかい?」
「……ないです」
「じゃあ、貸してあげるから」
そうして、ヒロは女医から傘を借りて、玄関まで行った。
外は、まだ、雨が強く降り続いている。
まだ少女の心配をしていることが窺えるヒロの様子を見て、女医は優しい笑みを浮かべた。
「それじゃあね。そんなに心配なら、明日また見に来ればいいよ」
本音を言えば、もう関わらない方がいいのではと女医は内心考えていた。
どう見ても、喧嘩をして怪我をした不良娘。
関わっても、ろくなことにはならない。
それでもそう尋ねたのは、目の前の少年の返事を予想しているからだ。
「……はい、そうさせてもらいます。あの、今日は本当に、ありがとうございました」
「あいよ」
案の定な返事をするヒロに、女医は少しだけ呆れつつもどこか嬉しそうな笑みを浮かべて、手をあげた。
女医に見送られて、ヒロは傘をさして、雨の中へ歩いていった。
その背中を見届けた女医は、玄関の扉を閉めて、診療所の中へ戻った。
とりあえず、少女の様子をもう一度見ようと歩きながら、
「あんな子がいるなんて、まだまだ世の中捨てたもんじゃないね」
そう呟いて、思わず笑い……ふと、思う。
「……それにしても、あの女の子、どこかで見たことがあるね。はて、どこだったか……」
怪我だらけで運ばれてきた金髪の少女。
その少女に、どこかで、見覚えがあるような気がする。
そんな疑問を抱えたまま、少女が眠る部屋の扉を開ける。
――そして、女医はその場で立ち尽くした。
「……まいったね、こりゃ」
部屋は、もぬけの空だった。
誰もいないベッドのそばの窓が開かれ、雨風が入り込んでいた。
少女の姿は、どこにもない。
腕に刺してあった点滴の針も抜かれている。
「やれやれ、どうしたもんかね」
困り果てながら、窓を閉め、カーテンも閉じる。
濡れてしまったベッドや床を片付ける手間を思い頭が重くなる……。
「――」
ベッドのシーツに手をかけた時だった。
唐突に、女医の脳裏に、ある光景が浮かんだ。
揺れる陽光。
カーテンが風にそよいで揺れている。
そして、ひとりの幼い女の子が泣いていた。
誰もいないベッドのそばで。
「……そうか、あの子は」
シーツを手に固まったまま、しばし記憶の光景にとらわれていた女医は、その視線を窓の外に向けた。
その向こうには、まだ強い雨風の存在が強く感じられた。
「まあ、なんてことだろうね……」
悲し気な表情を浮かべ、すぐに、片付けをやめて玄関へと向かう。
そして、傘を差して、女医は雨が降りしきる世界へと足を踏み出した。
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