第3話 子猫の涙は拭えない
「いなくなった?」
「ああ、すまないね」
翌朝。
夜の雨に濡れた街が、陽の光できらきらと輝いている。
学校に行く前に、少女を預けた診療所を訪ねたヒロは、女医のその言葉に驚いた。
女医の話によれば、少女は窓から逃げ出したそうだった。
あの怪我で、夜の雨の中を?……とヒロの胸中に不安がこみあがる。
「あの後、この辺りを探してみたんだけどね。見つからなかったんだよ」
「……そう、ですか」
「……」
明らかに動揺しているヒロを見て、女医も困った表情を浮かべる。
雨上がりの空は快晴だけれど、ここだけ雨のようにどんよりしていた。
「悪かったね。わざわざ来てくれたのに」
「いえ、あの先生には、本当にご迷惑を」
「それは別にいいんだけどね……まったくあの子は、どこへ行ったのやら」
「……」
見ているこちらが心配したくなるほど、ヒロは思い詰めた表情を浮かべていた。
見ず知らずの他人のためにここまで親身になれるヒロに感心しつつ、どうにか励ましたいと思うも……なかなか難しい。
なので、ヒロの様子を見ていて覚えた予感を尋ねることにした。
「……あんた、あの子を探す気かい?」
「……はい。やっぱり、心配で」
案の定、ヒロはそんな答えを返してくる。
本当に優しい子だねぇと思いながら、それとなく注意する。
「それはいいけど……学校をサボったりしちゃだめだよ? ちゃんと学校に行きな?」
「……はい」
本音を言えば、今すぐにでも少女を探したい気分だった。
昨日、あんなに弱っていたのに、治療を受けてすぐに逃げ出すなんて。
また、どこかで倒れてやしないかと、不安になる。
「わたしももう一度、この辺りを探してみるよ」
「はい、お願いします」
女医に頭を下げて、ヒロは学校へ向かった。
昨日と違い、今日はよく晴れている。
青い空には、太陽と雲があった。
🐈
ヒロが学校へ行き、授業を受け、少女の行方を心配しながらお昼ご飯を食べ終える頃……。
件の少女は、ひとり、この街の総合病院へと来ていた。
そこは、昨日の夜、少女が頑なに連れていかれることを拒否した病院。
それなのに、なぜ、自らその場所へ向かったのか。
その理由は、少女だけが知っていた。
「……」
時刻は、午後一時過ぎ。
病院の面会時間が始まる頃合いだ。
沢山の人が行きかう病院内を、少女は、まるで誰かに見つからないようにしているかのような動きで、慎重に周囲を窺いながら移動していた。
その姿は、傍からみるとかなり怪しく映るだろう。
実際、何人かの人は、不審そうな目を向けていた。
少女の髪や服がぼろぼろで汚れている上に、顔や体中に傷を負っていることが余計に拍車をかけていた。
「……」
目的の病室まで、あと少し。
少女は、曲がり角から先の廊下を窺う。
歩いているのは、看護婦や入院中の患者。
そこに、少女が恐れる人物の姿はない。
安全を確認し、さらに移動する。
「何をしている?」
「――っ」
突然、背後から発せられたその一言で、少女の身体がぎくりと固まる。
同時に、汗が噴き出て、身体が強張った。
……絶対に、会いたくなかった。
だから、見つからないように行動していた。
それなのに、こうして、見つかってしまった。
……少女は、本当にいやそうに、振り向いた。
「……」
そこにいたのは、中年の男性だった。
白衣を纏っていることから、この病院の医師であることが窺えた。
その表情は、厳しそうに強張っていた。
「――」
その姿を見ただけで、少女の小さな体がまた震えた。
その震えを隠すためか、少女はぐっと拳を握りしめ、身体に力を入れた。
「またあの患者の見舞いか」
図星をつかれ、それだけで、心臓を射抜かれたような痛みが走った。
「学校にも行かず、いつまでもふらふらと……恥さらしが」
「……っ」
さらに、少女は拳を握りしめた。
それは、意識してのことではなく、少女の内に生まれた怒りと悲しみによる現象だった。
じわりと滲んでくる涙をこらえるために、唇をきゅっと引き締める。
……けれど、もう、我慢ができなくなった少女は、勢いよく中年の医師に背を向けて、歩き出した。
だが、中年の医師は、さらに追い打ちをかける。
「そんな不潔な格好で病院内をうろつくな! 衛生上の問題がある!」
「――っ」
少女の足が止まる。
そのまま震えながら、その場から動けなくなってしまう。
「……」
少女は、その場で立ち尽くしたまま震え続ける。
やがて、堪え切れなくなった涙が溢れそうになった瞬間、
「うるせー!」
思い切り叫んで、全力で駆け出した。
その叫び声を聞いた周りの看護婦や患者たちが、何事かと目を向ける。
少女は泣きながら、その場から、逃げ出した。
🐈
「……っ、ぅ、く」
あの場から逃げ出して……病院の廊下を走って、少女は目的の部屋へとたどり着いた。
そこは、この病院にある個室。
閉めた扉を背に、少女は涙をこらえる。
「……、……っ」
そして、涙で滲む視界の先に、ひとつのベッドがあった。
そこには、真っ白なベッドで眠る……ひとりの女性がいた。
とても、綺麗な女性だった。
艶く長い髪。
モデルのように高い身長。
優しい面立ちをしたその人は、病院着に包まれ、点滴をされた状態で、静かに眠り続けていた。
「……結衣姉」
少女は、そう呟いて、ベッドへと近づく。
「……早く、目を覚ましてくれよ」
何度も伝えたその言葉に、けれど、女性は応えてはくれない。
「結衣姉がいないと……わたしは、ひとりぼっちだよ」
……。
少女の言葉は、病室に吸い込まれていく。
大切な人が泣いている。
それでも、ベッドで眠る女性は、その涙を拭うことができなかった。
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