女子口腔生

平賀・仲田・香菜

女子口腔生

 オーラルセックスという言葉を知ってから、私は自分の口という器官が恥ずかしく感じるようになってしまった。ぬらぬらと光を反射する、血肉の通った赤い粘膜を人に見せることは大変にはしたないのではないかとまで思う。人の口内が目に入ることも、自分の大口を見られることも思春期の女子である私には刺激が強すぎる。

 幼少の頃を思い返せばよくもまあ、あっかんべーをしたり、かき氷を食べた後に友人と舌を見せ合ったものだと自戒する。少しでも口内に清潔感を保ちたく、今では日に三度の歯磨きにマウスウォッシュ、歯間ブラシは欠かせない。

 歯医者に通院などもってのほかである。医療行為とはいえ口の中を他人に弄くられるなど耐えられる気がしない。歯科矯正を小さいころに終えたことを幸いだと、両親に感謝の意を伝えれば彼らはポカンと口を開けた。はしたない。

 口内調味など今ではもってのほか、そもそもマナー違反である。おかずを咀嚼し飲み込んでから、口を開いて改めてお米を迎える。これこそが美しい食事と私は信じて疑わない。

 コロナ禍という時代は私にとって都合が良かった。マスクのことを顔の下着、などと形容することも久しくない最近に私は安堵を覚える。マスクで自分の口元を隠していることが不自然でないのが幸運である。私は産まれる時代を間違えれば口裂け女と揶揄されてもおかしくない人間なのだ。

 私は人に口を見られたくない。

 そのために私は一人でお弁当を食べている。

 空き教室の机で一人、ぽつねんと食事をする。

 それが原因か、高校に入学してもうすぐ初めての夏休みであるが私に友人はいない。

 寂しいと思ったことはない。

 私が自分の羞恥心を何より優先した結果なのだから。


「千春さん。一緒にお弁当を食べましょう」


 だからクラスメイト、薫子さんの提案には驚きを隠せなかった。もう少しで間抜けに口を開くところを堪え、お弁当を広げる手も止まった。マスクも付け直す。

 動揺して固まる私をよそに、千春さんは空き机を私の正面にセッティングする。どこ吹く風で彼女はお弁当を開いた。古風な曲げわっぱには似つかないハンバーグとグラタンが覗く。白米にかかる桜でんぶが色鮮やかに輝いていた。

 マスクを丁寧にケースへと仕舞い、手を合わせて『いただきます』と呟く彼女は、背筋も伸びて育ちの良さを窺わせて、存外にも私は見惚れていた。

 彼女の肩まで伸びた髪は吸い込まれるように深い黒で、定規を使って引いた線のように真っ直ぐだ。丁寧に切り揃えられた前髪と合わせて見ると、まるで市松人形の様相であった。

「食べないの? お昼休み、終わっちゃうよ」

 私は慌てて自分の弁当箱を開くが、やはり恥ずかしい気持ちが強い。ため息をついて、蓋を閉じる。

「ダイエット中だから」

 もちろん嘘である。

『ふうん』と事も無げに相槌を打った薫子さんは、食事を始めた。ハンバーグを箸で切り、最小限に口を開く。その動きに淀みはなく、咀嚼する姿すら美しく見えるのは食事の作法が身についているからなのだろう。もちろん口内調味をしている様子も、その口内も、歯も舌も見えない。見える箇所といえば、リップでも塗っているのか、その薄紅色に輝く唇くらいであった。

「人がご飯を食べているところを見て楽しいのかしら」

 目は口ほどにものを言う、ということか。私の熱視線は彼女を焼いていたらしい。主に彼女の口元を。

 人にされて嫌なことは人にしてはいけない。そんな人としての常識が欠如していた自分に気付き、少し視線が沈む。

 薫子さんは箸を置いて、続けて言った。

「私は人の食事風景を見るのが好きだけどね」

 思わぬ言葉に私の目は彼女の黒い瞳を捉えた。

「美味しそうにご飯を食べるだけのドラマも増えているし、きっとそれは可笑しな感性ではないと思うわ。だけど何より」

 一呼吸置いて、言った。

「食事中の口元ってとってもセクシーだもの。私は千春さんがご飯を食べているところが見たくてここに来たの」

 結局、突然の来訪者によって私はお弁当を一口も食べることなく昼休みを終えた。手付かずのお弁当を見た母は体調を心配していたが、『ああ』とか『うう』とか要領を得ない私の返答に業を煮ましてぷりぷりと怒ってしまった。

 薫子さんは食事している人の口元がセクシーだと言っていた。実のところ、それは私の感性と非常に近いのではないかと思う。

 口という器官に性、ひいては神秘を感じたという点で同じだからだ。口を性器として捉えた場合、私は自らの口に恥を感じて忌避しているが、本能に従って興味を持つことも不自然ではない。

 その点で私と彼女は同じなのだった。アプローチの仕方が違うだけなのだった。

 薫子さんもたぶんそれに気付いている。だから私に近付いてきたのだろう。

 私と薫子さんは別段に親しいわけではない。休み時間に会話することも特にはない。せいぜい廊下ですれ違った時に挨拶を交わす程度だ。

 だというに、あれからは毎日のように私のお弁当に乱入してくる。薫子さんは勝手にお弁当を広げ、米粒一つ残さずに完食する。その後も立ち去ることなく、じっと私を見つめ続ける。

 私が食事することを待っているのだろう。しかし、やはり私は人前で食事を摂ることができないでいた。

 ただただ、私たちは話題も会話もなく、お互いをじっと見るだけの毎日が続いていた。

「明日で一学期は終わりね」

 いただきます、ごちそうさま以外の言葉をこの空き教室で聞いたのは久しぶりに思えた。薫子さんは食後であり、やはり私は食前だ。『そうね』と私は簡単に相槌を打った。

「そして明日は、学校の近くで夏祭りがあるの」

 駅や近くの商店街に沢山の貼紙を見たことがある。昼間から山車が町内を練り歩くらしいが、私たちは終業式の真っ只中である。

「千春さん、十六時に学校で待つわ。一緒にお祭りをまわります」

 もちろん、事前に約束など交わしていない。しかし薫子さんの中では既に決定事項らしい。私に予定があったらどうしていたのか。まったくもって勝手なことである。

 あまりにも自分勝手な申し出にも関わらず、私は彼女に対して頷いていた。約束を肯定していた。

 顔を上げれば、マスク越しでもわかるくらいに薫子さんの顔は綻んでいる。破顔とでもいうのか、彼女が表情を崩すところを見るのはこの数か月間で初めてのことだった。我に返ったか、私の視線に気付いた薫子さんは顔を背け、そそくさとお弁当をまとめて立ち去ってしまった。

 一人その背中を見送った私は、久しぶりのお昼ご飯に舌鼓を打った。


 終業式などさしたる事件が起こるはずもない式典である。夏が盛りを迎え始めるこの頃、体育館は日差しこそ防ぐが熱気は止まることを知らず流れる汗は不快。あくびに耐えながら先生の話を聞いてるふりをするだけである。

 今日は薫子さんとお祭りに繰り出すわけであるが、一日経った今でもなぜ彼女が私を誘ったのかはわからない。どうして私も受け入れてしまったのかもわかっていない。興味のない学年主任の話よりもやはり、私は彼女を目で追っていた。

 右斜め前に三人目。薫子さんは生真面目にも壇上へと目を向けていた。制服を着崩した同級生が多い中、背筋を凛として正しく着こなす彼女の存在は浮いているようにも見えるが、私にはそれが孤高であった。『みんながやっているから』などという言葉は彼女にとって無意味なことなのだろう。気怠そうに背筋を曲げたり、ぱたぱたと手で顔を仰ぐ周りの生徒に囲まれた薫子さん。そのたたずまいは素直に美しかった。

 しかしこの熱気には彼女の代謝もかなわないようで。首筋からは透明な雫が落ちていった。薄手の夏服はしっとりと湿り気を帯び、うっすらと白い肌、そして淡い青色の下着が透けて見える。それは禁忌のような、天上人の湯浴みのような。見続けることが罪であるように思えて、私は彼女に倣い目線を壇上に向けた。


 帰宅後、私は改めて高校へと向かう。制服から浴衣に着替えてだ。

 水色の生地に色とりどりの朝顔の柄だ。中学に上がった頃に買ってもらった浴衣であるため、少しばかり幼い柄かもしれない。身長があまり伸びず、この歳までも新調には至らなかったのだ。もっと慎重に選ぶべきだったかもしれない。

 わざわざ浴衣に着替えるなど大仰だろうか。気合でも入れていると思われるだろうか。いや、夏祭りならば浴衣に袖を通すことは自然なことのはずだ。むしろ、私を誘った薫子さんこそ浴衣でやってくるはずだろう。規律を重んじる生真面目な彼女だ。夏祭りに普段着でやってくるような季節感を無視した愚行に至ることはないはずだ。

 などと勝手な思い込みと決めつけである。どんな格好だとしても彼女の自由だというのに。

 校門前、待ち合わせ場所。五分前だというに薫子さんはすでに私を待っていた。その姿は――。

「制服?」

「千春さんは浴衣なのね」

 肩透かしを食らった気分だった。なんだ、楽しみにしていたのは本当に私だけだったのか。

「とても可愛いわ」

 不意打ちである。

「私も貴女みたいに可愛い浴衣でも着てみたかったけれど、あいにく一着も持っていないの。二人、浴衣姿で歩けたら素敵だったでしょうね。ごめんなさい」

 頭を下げるこの人は、本当にもう。包み隠しもしない素直な人だ。

「別にいいわよ。それより出店もたくさんあったし、もうすぐ花火も始まるんでしょ。行きましょう」

 私が手を伸ばすと薫子さんはちょっと驚いた顔をみせたが、すぐに平静を取り戻して手を取った。日は傾いたといえど蒸し暑い七月、彼女の手はじんわりと汗ばんでいた。


 とんとんとん、と軽い太鼓の音が響く公道。いつもの通学路には旗や提灯が飾り付けられている。それだけでも世界は非日常だった。車が止められて歩行者天国となった車道は歩くだけでもドキドキと胸が高鳴る。

 薫子さんは指差し、口を開く。

「出店がたくさんあるわ」

「何か買う?」

「たくさん買ってご飯にしましょう」

 それはこの人混みで、一緒に食べようということだろうか。それは困ってしまうことであるが、彼女は素知らぬ顔で出店を回る。

「フランクフルト、たこ焼きにお好み焼き。かき氷は最後にして、りんご飴も。わたあめの袋はどれにする?」

「……魔法少女」

「今川焼の中身はどうしましょうか。私はクリームが好きよ」

「大判焼じゃないの?」

 気が付けば繋がれた手は分断され、私たちの両手は荷物でいっぱいだった。全部食べるのだろうか。二人分? だけど私は人前で口を開きたくはない。どうしたものかと悶々と考え事をしながら薫子さんに着いていくと、そこはひと気もなく薄暗い神社であった。私たちはベンチに座る。

「ここは穴場なの。町は人混みに溢れているのに、ここは誰もいない。まるで」

 食事を持って彼女と二人きり。まるでいつもの昼休み。

「いつもの昼休みみたいね」

 薫子さんも同じことを考えていたようだ。

 いつもの昼休みということは、これはやはり。

「食べないの?」

「……ダイエット中だから」

「ふうん」

 彼女はそれだけ言うと食事を始めた。

 まずはたこ焼き。大ぶりな球体は彼女の口には入りきらず、一口を齧る。歪な噛み跡を残した片割れを残し、彼女の口内では咀嚼が行われているのだろう。前歯で細かく切断され、奥歯にすり潰され、舌によって運ばれ嚥下される。唾液と混ざりドロドロのペーストになったたこ焼きは見るも無惨なことだろう。

 ああ、食事とはかくも醜いものなのか。

 こんなに――。


「こんなに綺麗な人なのに」


 思わず口をついて出た。

 彼女は一瞬怪訝な顔を浮かべたが、食事を続けた。たこ焼きにお好み焼き、そしてりんご飴。一通りを口に運んだ彼女はマスクを戻して、言った。

「なのに、なに?」

「食事中の口の中は人類皆等しく悍ましい。醜くて、嫌だ」

「だから私の前で食事をしてくれないのね。やっぱり千春さんは、私と同じ感じ方をしているわ」

 ああ、やはりこの人は。

 私は語気荒く言った。

「自分の口内なんて想像しただけで吐き気がする。人に見られるなんてもってのほか」

「じゃあ、人の口内を見ることは?」

 ――人の? 人の口内? 以前も薫子さんは食事している人の口元がセクシーだと評していたことを思い出す。

「禁忌として遠ざけられたものって、どうしようもなく魅力的だと思うの」

 マスクを下ろし薄紅色の唇を露わにした薫子さんは、言った。


「私の口を見てみない?」


 私は眼前に現れた光景を脳が処理しきれていなかった。クラスメイトの薫子さん、セーラー服だ。一緒にお祭りを回っている。先ほどまで食事をしていた。きっと生々しい口内だ。ベンチで隣に座っている。そんな彼女が。


 ――ぽっかりと大きく口を開いて私に見せつけようとしている。


 とてもじゃないが私には真似することの憚られる、はしたなく悍ましい行為である。いや、およそ全ての人間にとってもはしたない行為であろう。

 口の中を他人に見せつける? これが魅力的だと? なんとふしだらか。薫子さんは何を考えているものか。

 彼女に注意しなければならない。声を上げて彼女を嗜めなればならない。

 それなのに、私は魅入られていた。荒い息のままに彼女の頬を両手で固定して、見入っていた。

 薄暗い神社。ベンチの直上の街灯だけが頼りだ。弱々しい橙色の光が彼女とその穴を照らす。セーラー服を着た同級生の女の子が私の目の前で口を開いている。そして隣に並ぶ私は浴衣姿だ。あまりに荒唐無稽な光景は私に現実をまるで夢と錯覚していた。

 薫子さんは暑いのか緊張しているのか。頬は蒸気して開け放しの口からは呼吸が少し荒かった。その目は潤いを帯び、懇願しているかのようである。

 私は顔を近付けて彼女の唇を観察する。蒸し暑い季節で季節であるが、その唇は乾燥していた。やはり彼女も緊張しているということだろう。

 穴の奥を覗き込む。直前に食べていたりんご飴の食紅は彼女の肉をぬらぬらと染め上げている。脈動に合わせて震える肉壁や舌は、まさに生命であった。整然と並ぶ二十八の歯はさながら鍵盤のようにも見える。

 薫子さんは苦しくなったのか、一度口を閉じて再び開いた。空気に触れて水分を奪われた口内では唾液が粘性を帯び、銀色の飴の様に伸びていた。

 私は唾液の橋を自らの指先で分断させ、その勢いのままに薫子さんの穴へと侵入する。抵抗なく沈む頬肉の感触は私を夢中にさせた。エナメル質の歯をいたずらになぞると、彼女の黒目も合わせて動くのが面白い。

 奥にまで入れすぎたか、薫子さんは涙目でえずく。瞬間、柔らかで暖かで粘膜に包まれた肉壁に私の指は包み込まれて圧迫された。その感触は私の生涯では例えようのない感触であり、同時に快感を覚えるようでもあった。

 快感が忘れられず二度、三度と繰り返し彼女をえずかせるうち、彼女と目が合う。息荒く涙を零す薫子さん。瞳に怒りはなく、私の行為はさも当然と肯定するかのようであった。

「舌、出して」

 私が命じると、彼女は素直に従った。

 ぬめぬめとまとった粘膜は食紅に侵されて鮮血を思わせた。舌を出したままにすることは苦しいのか、その舌は不規則に脈動して、揺れていた。

「動かさないで。よく見せて」

 ナメクジやウミウシにもよく似たその舌はやはり生物のようであり、まるで意思を持っているかのようにも見える。

 どうしても止まらない舌に私は苛立ち、指先でつまんで無理やりに引っ張り出して固定した。それは想定外の行動だったか、薫子さんはびくりと身体を震わせ、目には怯えが見えるようになった。


「やっぱり、汚いよ」


 私は呟いた。


「でも、綺麗だな」


 私は外気に晒された彼女の舌に口付けをした。



 夏の熱気が未だ町に残っていても、時期が来れば夏季休暇は終わる。私といえば相も変わらず空き教室に一人、お弁当を持ち込んでいる。やはりどうしても人前で食事をとる気にはなれないでいた。

 夏祭りの夜、薫子さんの口を侵した結論である。私は不特定多数の人間に口を見られること拒絶する。

 しかし心境には変化もあった。あの行為は、私と薫子さんをどこかで繋げたように思う。あれは私が存在に衝撃を受けたオーラルセックスに近しいものだったのではないだろうか。思い出す度、私は身体が熱を持ち慰めざるえない夜が数度あった。

 薫子さんとはあの後に連絡を取っていない。別れてから顔を合わせたのも今日が初めてだった。あの行為を彼女はどう感じたのだろうか。彼女はどうして私に口内を見せようとしたのだろうか。わからないことばかりであった。彼女は今日も勝手にやってきて勝手に食事を始めるだろう。だから直接聞いてみればいいのかもしれない。


 そう、一緒にお弁当でも食べながら。


「千春さん。一緒にお弁当を食べましょう」

「ええ。いただきましょう」

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