お稲荷様のお使いはじめました
こーの新
ハジマリのとき
第1話 見知らぬ場所と男たち
川原の高架下に安息の地を求めたはずだったのに、ぼんやりと感じるのは昔父さんにもらったふかふかのクッションに似た感触。
天国にでも来たのだろうかと重たい頭をもたげると、目の前には寝息をたてる知らない男がいた。茶髪に黒いピアス、黒いTシャツの上からでも分かるムキムキな筋肉。でも寝顔は幼くて、無防備そのものだ。
逃げなくては。
はっきりしかけた意識の中で、父さんの背中を思い出して飛び起きた。
その時、足を何かがくすぐった。視線を向けると、赤いもこもこした毛布が足元に落ちている。よく見れば隣に眠る男は秋になって肌寒くなってきたというのに畳の上にごろ寝して、上掛けも掛けていない。それに引替えボクはお日様の匂いがするふかふかの敷布団の上に座っている状況。
父さんが言っていた悪い人たちではないのかもしれない。一瞬そう考えたけど、かぶりを振った。父さんに言われたのだ、人間を簡単に信じてはいけない。
だけど。ボクは山の洞窟から出てすぐ、高架下の茂みに身を預けて気を失った。お腹が空いて、体が痛くて、眠たくて。もう一度父さんたちに会いたいと思いながら、意識が遠のいていったことを覚えている。
それでも今、ボクはふかふかの布団の上に座っていて、怪我には包帯が巻かれている。自慢のしっぽもぐるぐる巻きにされて、微かにキズ薬の懐かしい匂いがする。首輪も、足枷も、檻もないし、武器も何も向けられていない。
助けてくれたのかもしれないと心のどこかで思いながらも信じ切ることはできない。悪い人たちの一人が家に来るまでは、父さんと彩葉さん以外の人間は出会ったこともなかった。父さんと他の人間とは接触しないことを約束していたから。人間は恐ろしくて、ボクを見たら身ぐるみを剥いできつねうどんの具材にされてしまうからと幼い頃から言われ続けていた。うどんは美味しいから好きだけど、自分が具材にはなりたくないからすぐにでも逃げなくてはいけない。
でも、どこに?
「琥珀、起きた?」
急に開いた引き戸から人の顔が覗いて、ボクは慌てて布団から飛び退いた。体を低くしてすぐにでも飛びかかれる体勢をとって静かに唸る。山で戦っていた時みたいに大きく吠えてはいけない。そのせいで寝ている男を起こしてしまうことは避けなければ、足の速さしか普通の人間に敵わないボクに勝ち目はない。捕まってきつねうどんにされてしまう。
「眷属様。お目覚めになられましたか」
部屋に入ってきたのは黒髪をボクのしっぽみたいに束ねた男。男はボクの姿を見ると膝をついて正座した。
けんぞく?
なんのことだろうか分からないけれど、ボクを食べる気はない様子だから唸るのは止める。でもこれからどうすればいいのかも分からなくて、動きも止まる。
ぐるるるる……
「はうっ」
父さんに隠し通路に押し込まれた後はずっと飲まず食わずで走り続けていたから、お腹もペコペコだった。でもだからって、こんな状況なのに。あまりにも恥ずかしくて俯いたボクの耳に微かに聞こえた笑い声。ボクが何かする度に優しく微笑んでくれた彩葉さんの声にそっくりで思わず顔を上げると、正座した男が柔らかく微笑んでいた。
「おうどんならありますが、お食べになりますか?」
「おうどん……まさか、きつねうどんですか?」
「きつねうどんがよろしいようでしたら、お作りいたします。少々お待ちください」
頭を下げて部屋を出ていった男の足音が遠ざかると、ボクは体の力が抜けて床にしりもちをついた。よく分からないけど、ここにいた方がいいのだろうか。ペタリと座り込んでうんうん考えていると、今度は足音が聞こえた。すぐに立ち上がれるようにしゃがんでいると、引き戸からさっきとは違う金髪の男が顔を出した。
「眷属様、お風呂が沸きましたからお入りになってください。着替えとタオルは既に用意いたしましたから。ご案内いたします」
「えっと、良いのですか?」
「もちろんでございます。お耳としっぽはタオルで拭かせてはいただきましたが、まだ汚れておいでです。汗もかいておられたようですし、さっぱりしていらしてください」
「ありがとうございます」
金髪の男に連れられて階段を下りて脱衣所に入ると、研究所の脱衣所の四倍はありそうなくらい広い。備え付けの棚も縦に三段、横に数列くっついたものが壁の二辺を覆っていて、入って左の棚のない所には大きな鏡と洗面台が三つ。今のところ三人しか会っていないけれど、大家族なのかもしれない。
「あ、包帯はご自分でお取りくださいね」
「分かりました」
「では、失礼いたします」
そそくさといなくなった男の足音を確認して服を脱ぐ。研究所を出て山や洞窟を走ったせいで泥まみれだし所々破けてしまっている。彩葉さんが買ってくれたお気に入りだったんだけれど。しっぽの包帯を解いてお風呂場に入ると、こっちにはずらりと並ぶシャワーと鏡。床も湯船も石造りで縁だけ木枠が着いている。研究所のお風呂場は父さんが湯船に浸からない人だったから全くこだわっていなくて、湯船の大きさはちょうど足を伸ばして入れるくらいだった。
「普通の家のお風呂はこんなに広いのですね」
たくさんのシャワーの内一番端を選んで体を洗い流すと、体中のキズに染みる。そこまで痛くはないけれど、自分がどれだけの数の怪我をしていたのかを実感した。
シャンプーとトリートメント、石鹸も借りてさっぱりしたら湯船に浸かる。手すりが着いていたから有難く借りてゆっくり浸かると、じんわり体が温まってくる。この感覚は昔から好きだった。小さい頃は彩葉さんと一緒にお風呂に入っていたから、ゆっくり浸かる彩葉さんの真似をしてボクも長い時間湯船の中でのんびりしていた。逆上せたこともあったけれど、その度に彩葉さんが世話を焼いてくれたことが嬉しかった。
思い出すと途端に会いたくなる。悪い人たちは父さんとボクを狙っていると父さんは言っていたけれど、彩葉さんは大丈夫だったのだろうか。
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