ふるさとの

増田朋美

ふるさとの

その日は、冬らしく、寒さがあって、風の冷たい日であった。そうなると、あまり外へは出たくないなと思う人が多いと思われるが、それでも、外で働いている人はいっぱいいるし、すべての人が中で温かくというわけには行かない今日このごろである。

その日も、吉原駅で駅員として働いていた、今西由紀子は、いつもどおり、旗をふって、駅へやってくる電車を迎える仕事をしているのだった。

「ご乗車、ありがとうございました。吉原、吉原でございます。お降りの方は、お忘れ物の内容にお降りください。東海道線をご利用の方は、お乗り換えください。」

由紀子は、旗を降って、その日も吉原駅にやってきた、岳南鉄道の赤い電車を迎え、乗客が降りたのを確認して、また折り返し岳南江尾に向かっていく電車を見送るのだった。

「この電車は、車内点検終了後、折り返し、岳南江尾行となります。お乗り間違えのないように、ご注意ください。」

いつもどおりの言葉だけど、それでも、言わないと乗客が困る言葉なので、由紀子はそれを何度も繰り返すのだった。富士市内でも市民の足として、ほそぼそと営業を続けている岳南鉄道は、一両か二両しか車両編成が無いし、一度に乗る乗客も五人くらいしか無いが、それでも、電車を走らせて居るのである。ときには、誰も乗らないときもあるが、それでも、案内はしなければならない。

一応、岳南鉄道は、一時間に二本か、三本は走っていた。だから、次の電車まで、少なくとも20分程度時間があった。そのときも、電車を見送って、次の電車が来るまで一息入れるかと思っていたときに、一人の女性が、駅の改札口からやってきた。岳南鉄道では、未だにスイカなどのICカードでの乗車はできず、乗るお客さんは、切符を買わなければならないが、女性は、別の駅員に切符を切ってもらって、吉原駅のホームにはいってきた。そして、ホームのど真ん中に棒みたいに立っていた。由紀子は、気にしないで電車を待っていたが、どうも彼女の様子がおかしいと思った。何故か、相当思い詰めた様な顔をしている。しばらく、電車を待っていると、その数分後に、太った別の女性が駅のホームにやってきた。彼女が誰であるかは、由紀子もなんとなく知っていた。

「まもなく、二番線に、岳南江尾行が到着いたします。危ないですから黄色い点字ブロックの内側まで下がってお待ち下さい。」

由紀子は、いつもどおりの挨拶をした。電車は、いつもどおりにやってきたが、その時女性が、電車に飛び込むつもりなのか、体を身構えたので、由紀子はびっくりした。電車を迎えなければならず一瞬パニックしてしまったが、それと同時に太った女性も、彼女を捕まえなければならないと思ったのだろう。太っている割に素早く走ってきて、電車に飛び込もうとした女性を捕まえた。電車はいつもどおりにやってきて、ホームで止まり、ドアを開いて、少ない乗客を吐き出してくれた。

「大丈夫。あたしが彼女を抑えてますから、由紀子さんは、駅の仕事を続けてください。しないと、他のお客さんたちが困るでしょう?」

と、太った女性に言われて、

「ご乗車ありがとうございました。吉原、吉原でございます。お降りの方はお忘れ物のないようにお降りください。東海道線をご利用の方は、お乗り換えです。」

と、急いで言った。由紀子は、そのあと、電車の車内点検をして、岳南江尾行に切り替える作業をしなければならなかったが、太った女性は、相手を動かなくさせる方法を知っていたらしい。彼女はずっと、電車に飛び込もうとした女性を押さえていた。なので由紀子はいつも通り、電車を発車させることができた。

「それでは、岳南江尾行、まもなく発車いたします。ご利用のお客様は、ご乗車のままお待ち下さい。」

電車は、ドアを閉めて、岳南江尾駅へ向かって走っていった。これだけは時間厳守しなければならなかったが、いつもどおりできた。

「ああ、良かった。あなたが死のうとしているところなんて、私は見たくないもの。良かったわ。あなたを救うことができて。」

太った女性は優しくそういった。由紀子は、でぶでぶに太った人は、そういうふうに優しい気持ちを持っているのかなと思った。

「私、、、。」

と言って泣き出す彼女。よく見るとその顔は、由紀子も見覚えのある顔だった。よほどテレビを見ない人でない限り、彼女の顔はすぐわかるのではないか。それくらい美人で、ちょっと色っぽいところもあった。

「あれ、あなたどこかで見たことある。」

由紀子は思わず言った。太った女性が、それにあわせて、

「そうそう。あたしも、あなたをどこかで見たと思ったのよ。確か、テレビで歌ってたわよね。天才少女とかいって。名前は確か、」

というと、思わず由紀子は、

「佐藤和恵。佐藤和恵さんですね。」

と言ってしまった。

「そうそう。佐藤和恵さん。間違いないわよね。ここであったのもなにかの縁だわ。ぜひ、サインをちょうだいよ。あたし、クラシックの音楽大好きなのよ。テレビで見たわよ。あなたが、テレビでふるさとの、っていう歌を歌ってたの。」

太った女性がそういう通り、ふるさとのという楽曲は、佐藤和恵という歌手のヒット曲であった。確か、石川啄木の歌に曲をつけたものである。作曲者の名前は忘れてしまったけれど、でも、それが出たとき、かなりヒットしたので、由紀子もなんとなくメロディーは覚えている。

「あんな素敵な歌を歌えるなんて、すごいことじゃないの。だから、ここで死のうとしてはもったいないわよ。もし、私で良ければ相談にも乗るわ。私、榊原市子。よろしくね。」

太った女性は、そこで名前を名乗った。由紀子は市子さんがそうやって明るく言ってくれて良かったなと思った。自分にはできないことであった。

「ごめんなさい。そんなふうに優しくしてもらったことなかったから。本当にごめんなさい。」

そう涙をこぼしてなく佐藤和恵さんに、市子さんは、急いでハンカチをそっと貸してあげた。

「自殺なんてしては行けないとは思いますが、でも、何もできなくて本当に死ぬしか無いと思ってしまったんです。まさか助けてもらうとは思わなくて。私、やっぱり間違ってましたよね。」

佐藤和恵さんは、そういうのだった。

「ここでは寒いですよ。どうせなら、暖かい飲み物でも飲みながら、お話されたらどうですか。こんなところではなくて、もっと、暖かくて、親切な人が居る場所に行ったほうが良いと思います。」

由紀子がそう言うと、市子さんもわかってくれたようだ。

「わかりました。じゃあ、私が連れていきますから、由紀子さんは駅員業務を続けてください。あとはあたしに任せて。そうしないと次の電車が着てしまいますよ。」

市子さんにいわれて、由紀子は、電車の迎えのしごとに戻った。市子さんの方は、スマートフォンを出して、これから、お願いしたい女性が居ると電話をかけ始めた。そして、市子さんに連れられて、佐藤和恵さんは、タクシーに乗ったのだった。

タクシーは、大渕というところに到着した。大渕は、昔はゴミ焼き場と呼ばれていた、今は、観光施設になっている富士山エコトピアがある場所でもある。でもタクシーはエコトピアに入らず、その近くにある日本旅館の様な和風の建物の前で止まった。市子さんと、和恵さんはそこで降りた。そして市子さんは、その建物の門をくぐって、玄関の引き戸をガラッと開けた。そこには、上がり框がなく、誰でも簡単に入ることができるようになっていた。

「やあやあやあやあ。新しいお客さん。よく来たな。まずはじめに、悩んでいるやつは腹が減っている。ちゃんとカレーを作っておいたから、たっぷり食べろ。」

そう言いながら出てきたのは杉ちゃんだった。

「僕は影山杉三で、杉ちゃんって呼んでね。職業は和裁屋。よろしくね。」

そういう杉ちゃんは、歩けないらしく、車椅子に乗っていた。でも、黒大島の着流しを着て、普通の人とはちょっと違うなという雰囲気があった。「遠慮しないではいってくれていいわ。この施設は、居場所が無い人のための施設でもあるから。」

市子さんがそう言ったので、佐藤和恵さんは、はいと言って、建物の中にはいった。杉ちゃんが彼女を廊下を歩かせて、食堂に連れて行った。食堂はカレーのにおいが充満していた。いくつかテーブルと椅子があったが、その1つに、カレーをたくさん盛り付けたお皿があった。

「さあ食べろ食べろ。おかわりしてくれてもいいよ。まずはたっぷり食べることだな。」

と、杉ちゃんに言われて、佐藤和恵さんは、椅子に座った。ちょっと警戒しているような彼女だったが、カレーの匂いは、それすら止めてしまう効果があった。杉ちゃんに渡されたお匙を受け取って、佐藤和恵さんは、カレーにかぶりついた。そのカレーは野菜が沢山はいっていて、とても美味しいカレーであった。なんだか、大食いの人であれば、たくさん食べてしまえそうになるほど、美味しいカレーだった。佐藤和恵さんは、あっという間にカレーを食べてしまった。

「で、佐藤和恵さん。」

と、杉ちゃんが彼女に言った。

「もう私の名前を知っていらっしゃるんですか?」

と、和恵さんは、小さな声で言う。

「知っていらっしゃるって、テレビにもたくさん出ていらしたし、あなたの事を知らない人は、いないと思いますよ。」

と市子さんが言うと、和恵さんは大きなため息を着いた。

「それで、なんでお前さんは、岳南鉄道の電車に飛び込もうと思ったんだよ。」

杉ちゃんがそう言った。

「お前さんは確か、天才少女歌手として、テレビで歌ってたよな?確か、オペラのアリアとか、そういうもんを歌ってたよな。はじめは、シューベルトとかそういうものを歌ってただろ。そのうちだんだん、有名なオペラのアリアも歌うようになって。確か、お前さんは、オペレッタこうもりのアディーレのアリアも歌っていた様な気がする。」

「そうですね。その時はまだ、14歳だったんですよね。」

市子さんがそれに付け加えた。

「そうそう、音楽学校にも行ってないのに、すごいアリアをなんぼでも歌って、アチラコチラで天才としてもてはやされたよな。でも確か、すぐにクラシックからは姿を消した。それはまた何だったんだろうね。そのままクラシックにとどまってれば、良かったと思うのに、それなのに、ポップの方へ行ってしまって。」

杉ちゃんという人は、相手の反応も見ずに言いたいことを言ってしまうくせがあった。彼女は、それを聞いた途端、また泣き出してしまった。

「大事なことだから、ちゃんと言うよ。確か、そっちの方は、ヒットしなかったんだよね。クラシックのふるさとのがお前さんの一番のヒット曲ではなかったの?」

杉ちゃんがそう言うと、彼女、佐藤和恵さんは、はいと小さな声で言った。

「どうしてクラシックから姿を消したんだ?あれをそのまま続けていけば、音大でも行って成功したかもしれないじゃないか。それなのになんで、歌謡曲の方へ行ったの?」

杉ちゃんがそう言うと、彼女は、

「学校で、天才と言われるのが嫌で。友達もできなかったし。寂しかったんです。」

と、小さい声で答えた。

「声が小さい。大事な問題だから、ちゃんと言おう。もう一回言ってみな。僕らは怒らないから。」

杉ちゃんに言われて、佐藤和恵さんは、

「本当に寂しかったんです。」

と涙をこぼした。

「それで、歌謡曲に行ったけど、ヒットに恵まれなくて、それで死んでしまおうと思ったわけか。まあ確かに、それは辛い人生だったかもしれないけどさ。でも、それは、しょうがないことだったんだから、それは受け止めるしか無いよ。あとは、そうだなあ、せっかくお前さんが得た利益を生かしてさ、なにかやりながら生活していけばいいじゃないか。お前さんが、テレビから追放されたのは、お前さんはテレビには向いてないってことを示すためだったんじゃないの。それよりもっと大事なことがあるって、教えてもらうためだったのかもしれない。だから、そう思って、またやり直せばいいさ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「でも、近所の人には、白い目で見られるし、学校の同級生には嫌味を言われてしまうし。もう、行きてる価値ないなと思って、死んでしまいたかったんです。だってもう歌う事はできないですもの。」

と、佐藤和恵さんはいう。

「できないでしょうか?」

と市子さんが言った。

「ピアノのような楽器と違い、歌は、歌のメカニズムさえマスターできていればすぐできる芸だと思いますよ。すごく長く歌っている歌手もいっぱいいますし。」

「そうそう、市子さんの言う通り。そうだ、試しにさ、お前さんの最大のヒット曲であった、ふるさとのを歌ってよ。」

いきなり杉ちゃんがそういう事を言った。

「でも私、伴奏が無いと。」

佐藤和恵さんが言うと、

「じゃあ、水穂さんに弾いてもらおう。今起こすから、ちょっと待ってて。」

と、杉ちゃんは車椅子を動かして、隣の部屋へ行った。食堂の隣の部屋は、四畳半の小さな部屋だったが、グロトリアンと書かれたピアノが置いてあった。杉ちゃんは、布団に横になっていた水穂さんに、

「おい、ちょっとさ、佐藤和恵さんのふるさとのを弾いてみてくれ。」

と言った。水穂さんは、どうしたんですか?と聞くのであるが、杉ちゃんは、良いからやってくれといった。水穂さんは、楽譜があるわけじゃないから、正確では無いと思いますがと言いながらも、ピアノの前に座って、ふるさとのを弾き始めた。さすがは水穂さんである。すぐに音をとってピアノを弾くことができるのだった。市子さんに促されて、佐藤和恵さんは、中庭の敷石の上に立ち、緊張した感じで歌い始めた。

「ふるさとの山に向かひて、言うことなし、ふるさとの山は、ありがたきかな。」

なるほど。彼女の歌の才能は、すごいものがあることは疑いなかった。多分、佐藤和恵さんは、ちゃんとした声楽家にでも師事すれば、まだアリアとか歌えるのではないかと思われる声量があった。それを聞きつけて、買い物から帰ってきた利用者が、聞きに来てしまったくらいだ。杉ちゃんも、市子さんも、演奏が終わって拍手をした。

「いやあ、素晴らしい歌声だね。声量もあるし、なんか人を引き付けるものがあるよ。それを捨ててしまったのが、本当にもったいないくらい。歌謡曲じゃなくて、またクラッシックに戻ってきてよ。そのほうがよほど、歌えると思うよ。」

杉ちゃんに言われて、佐藤和恵さんは、

「でも、もうクラシックは歌いたくないって、テレビの関係者にも言ってしまったし。」

と言った。

「いやテレビの関係者に言わせなければいいの。それより、他の場所、そういうところでやれば良いのさ。お前さん友達が無いって言ってたろ。それなら、友達をこれから作ろうよ。歌のサークルの様なところに行ってさ。そこで歌わせてもらったら良いんだ。そうすれば、お前さんが本当に欲しかったものだって手に入るよ。」

杉ちゃんがにこやかに行った。市子さんも、

「そうよ。そうしないと、いつまでも前へ進めないわ。人間は過去には戻れないんだから。忘れる事はできなくても、新しい事を始めて、また楽しみを見つけることもできるわよ。」

と、彼女を励ました。

「それに、歌のサークルとか、合唱団とかは、今は星の数ほどあるんだし、どこかへ入らせてもらうこともできるんじゃないかなあ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「でも私ソロでなければ、絶対うまく行かないって、テレビに出たとき言われてて。」

と、佐藤和恵さんは言った。その言い方があまりにも極端で、洗脳されていることがわかる言い方だった。

「私は、声量はあっても、合唱とかそういうものには向かないから、ソロでやるしか無いって、オーディションに合格したとき言われたんです。だから、絶対そういうところは無理です。」

「やってみなきゃわからないじゃないか。」

と、杉ちゃんが言った。

「何なら、私が紹介しましょうか?大渕公民館でやっている歌のサークルありますよ。」

市子さんが、スマートフォンの画面を見ながら言った。杉ちゃんもそうだねと彼女に賛同した。

それから、数日がたった。今西由紀子は、いつもと変わらず駅員業務を続けていた。岳南鉄道の吉原駅は、ちょっとした文化交流のできる場所でもあり、合唱団とか、オーケストラなどが、演奏会のポスターを貼ることができるようになっていた。その日、別の駅員が、新しいポスターを駅の掲示板に貼ると言って持ってきた。由紀子はいつもその詳細を見ることはなかなかなかったが、今日はなぜか、それが目に入ってしまった。そのポスターは、ボーカルアンサンブルグループの定期演奏会のポスターであり、出演者の顔も載せられていたが、その中に、佐藤和恵という名前が書いてあったのに気がついた。そうか、佐藤さん、グループにはいったのねと由紀子は、ちょっとホッとした。多分、杉ちゃんたちが、その媒をしたのだろう。佐藤さんのあのときの絶望的な顔を、由紀子は思い出した。ポスターに載っていた顔は、その様な絶望的な顔ではなかった。とてもうれしそうな笑顔である。由紀子は多分、佐藤さんは、クラシックを歌うことができて、本当は嬉しかったのではないかなと、ちょっと思った。市子さんの話だと、クラシックを歌うのは嫌だと言っていたというが、佐藤和恵さんのふるさとのは、とても素晴らしい物があるし、あの演奏は、クラシックが嫌であったら、できないのではないかと思われる演奏だった。佐藤和恵さんは、本当に必要なものを、得るために、ちょっとつらい思いをしただけだと由紀子は思った。これから、彼女は、歌手としてまた再生できるのではないか。もうテレビに出るのではなく、本当に歌いたい場所で歌うこともできるだろう。由紀子は、彼女の事を思い浮かべながら、自分も駅員としての業務をちゃんとしなければと思い直して、急いで電車を迎えに戻っていった。


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ふるさとの 増田朋美 @masubuchi4996

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