第37話 助ける男

 何が起こったかを理解するのに、少し時間が必要だった。わかったことは、有村さんに助けが必要で、この俺に助けを求めているということだけだ。

 非常に焦った。女性のあんな悲鳴を聞いたのは初めてだ。誰かに襲われているのかわからないが、遊びではないことは確かだ。

「い、行かなくちゃ……」

 当然の使命感に駆られた。ソファーにかけてあった上着を無造作に取り、上から着用した。玄関の鍵を手に取り、ドアを開けて外に出た。

「どこだ……?」

 携帯の履歴を見ても、彼女の居場所がわかるわけでもない。勢いと根性だけで家を飛び出たものの、どこに向かえばいいかわからなければ話にならない。

 思い出せ。しっかり思い出せ。彼女の声に何かヒントがあるのかもしれない。一緒に聞こえてきたあの雑音の中に、答えが隠れていたりしないか。

「うん……?」

 いや、間違いない。聞き覚えがある。電話越しに聞こえた、彼女の声の後ろのあの雑音には、間違いなく聞き覚えがあった。

 しかもここ何年間に限っては、毎朝耳にするような馴染み深い音だ。どんなことがあっても、例え何もなくても、否応なしに毎朝聞こえてくる音だ。もはや脳ではなく、耳で記憶していると言っても過言ではない。

 それは、毎朝俺の乗る電車が、最寄駅を過ぎたあたりの高架を通過した時の音だ。線路のつなぎ目か何なのかは知らないが、その地点を通過する時に特徴的な揺れと音を発するのだ。

 そうと決まれば、俺は走るのみだ。俺の家を出てすぐだ。2、3分走ればすぐに着く。

 頭で考えるよりも、行動に移す時間の方が早かった。急ごう、と思った時にはすでに足は動いていた。高架の辺りは人通りも少ない。あの辺りを探せば彼女もすぐに見つかるはずだ。

 


 息を切らしている自覚すら持つ余裕すらなかった。しばらく無心に走り続けると、やがて例の高架が見えた。この上を電車が通過した音が、電話を介して俺に届いたのだろう。そう考えると、彼女がいるのはこの辺のはずなのだが、周囲を見渡しても彼女の姿はない。

 ここの辺り一体は、急行が止まる大きな駅の東側だ。商店街やマンションが建ち並ぶのは主に駅の西側で、東側は暗く寂れている。そもそも人の姿を見かけること自体が珍しいことなのだ。

「有村さん!有村さん!!」

 思わず声を荒げた。俺の声は無機質なビルに何度か反響した。

「いるなら返事してください!有村さん!!」

「……」

 だがその瞬間、声にならない声を俺は確かに聞き取った。それが有村さんである根拠などない。しかし、近くに彼女の存在を確信した。必ず、助けてみせる。

「い、今向かいます!」

 俺と彼女は決して長い付き合いがあるわけでもない。付き合っているわけでも夫婦でもない。ただの友達だ。しかし、お互い何か通ずるものを持っている気がした。心の底から分かり合える、尊敬しあえる関係だった。それが、俺をここまで来させた。ただの偶然ではないことは明らかだ。

「……」

 また聞こえた。それも、今度はより近くで。

 俺は狭い路地裏に入った。ここから、彼女の声が漏れている気がしたのだ。幅が僅か2メートルほどの狭い道を、グングンと歩いていく。隣の建物の室外機や何やらが、俺の進路を時折妨げる。

「有村さん!有村さん!」

 路地裏の真ん中で、俺は大きな声で彼女の名を叫んだ。

「……!」

 今度はしっかりと聞こえた。彼女の声だとはっきりとわかった。もう俺のすぐ近くにいる。

「有村さん!」

 急いで周囲を見渡すと、不自然な物が目に入った。室外機の影に隠されるように置いてあった黒いビニール袋だ。よく見ると、モゾモゾと小さく動いているではないか。

「あ、有村さん!!」

 俺はそのビニール袋の口を急いで開けた。その中には、両手両足を縛られて、口にガムテープを貼られた状態の彼女がいた。

「有村さん!!だ、大丈夫ですか?有村さん!」

「……!」

 令和のこととは思えない、昭和の香りがプンプンと漂うのはこの路地裏も、この状況も同じだ。彼女は大粒の涙を流していたものの、意識は鮮明だ。元気な様子で、見た感じ大きな怪我もなさそうだ。

「ほ、解きます」

 少しホッとした俺は、彼女にそう声をかけた。彼女の濡れた頬を軽く抑え、口に貼られた黒いガムテープをゆっくりと剥がした。少し痛そうだった。手足のロープは少し手こずったが、すぐに解くことができた。

「お待たせしました。遅くなってすいません」

「し、慎也くん……」

 彼女はウルウルと輝く目で俺のことを見ると、緊張が解けて安心したかのように、俺の体に寄りかかってきた。彼女の頬が俺の肩に優しく触れた。

「あ、え……」

 こんな経験のない俺は、若干戸惑った。だが、迷うようなこともなかった。俺は彼女の体をゆっくりと抱きしめた。背中に回した手から彼女の温もりを感じる。呼吸のたびにゆっくりと上下に揺れる彼女の体は、彼女が無事でいてくれたことを俺に暗に伝えてきた。

「もう誰にも見つけられずに、死んでいくのかと思ってた……」

 嗚咽を含みながらも、彼女は言葉を紡いだ。そんな彼女を見ていると、俺も泣きそうになってしまう。これほどまでに怖い経験は、恐らく普通の人が耐えれる代物ではない。俺が助けに来るまでの時間は、きっと地獄にも似た境遇だったに違いない。決して俺が苦しみを共感してあげることはできないが、少なくともこの瞬間、彼女の側にいてあげることが俺の役目なのだろう。

「も、もう大丈夫です。安心してください。僕がいます、僕が」

「うん。うん……」

 彼女は何回も頷いた。まるで恐怖心から抜け出せない自分を安心させるかのように。時間が彼女の心の傷跡を癒していくまで、俺たちはしばらくここにいた。

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