第36話 恋

 目を覚ましたら、もう昼の12時を過ぎていた。こんなにも人は寝れるものなのかと感心しながら、ゆっくりと布団から出た。だが同時に、休みの日の半分を無駄に過ごしてしまった自分に少し腹が立ってもいた。

 もはや朝食を食べる時間でもない。やることもない。俺はとりあえずソファーに腰掛けると、近くにあったリモコンでテレビをつけた。地味な見た目のお笑い芸人が真っ昼間から漫才をしている。

《俺、警察署になりたいねんな》

《警察署?警察じゃなくて、署の方?》

《うん。署の方》

《絶対無理や!何言うてんねん》

《そっかー。やっぱり資格取るの難しいもんな》

《資格なんかないねん、あんなもんに》

 あまり面白くない。関係代名詞っていうコンビなのか。知らない。

 俺はすぐにテレビを消してしまった。それはきっとテレビのせいでもあるが、ほとんどは昨日の田所さんの言葉のせいだ。昨日の夜から、その言葉が永遠と頭の中を駆け巡っている。その度、胸がズキズキする。あまり経験しない類の痛みだ。

「会いたい人……」

 魔法のような言葉だ。それが脳内で再生されるたび、必ずある女性の顔が浮かぶ。頭を左右に振って気付かないフリをしても、意味を成したことはない。

「会いたい人……」

 まただ。またその言葉が頭に響いた。ソファーに座っているのに、気持ちが落ち着かない。居ても立ってもいられず、立ち上がって部屋をグルグルと歩き回り始めた。

 こんなことは生まれて初めてな気がする。何なんだ、この煩わしくも胸の焼けるような感情は。何をしていても手につかない、この暑苦しいほど焦ったい思いは何なのだろう。

 その時、ベッドに放ったままだった携帯電話が鳴った。画面を見ると、少し驚いた。なつみからだった。

「あ、え、もしもし」

《もしもし、あたし》

「うん。どうしたの急に?」

《いや、お礼ちゃんと言えてなかったから》

「別にいいのに、そんなの」

《ありがとう、慎也。色々と》

「う、う、うん。それは、どうも……」

《何それ!?ちゃんとお礼言ってるのに》

「ごめん。感謝されるのに慣れてないんだ」

《ははっ!たしかに》

「……」

《で、最近どうなの?》

「どうもこうも、ちゃんと生きてる」

《あらそう。死んでなくてよかったわ》

「……」

《なんか疲れてる?》

「まあ、色々あったし」

《それはどうも、お疲れ様》

「なんか、こう、何をしてても地に足がつかないというか、浮ついてるというか、手につかない感じ」

《へー。好きな人出来たんだー》

「え?ごめん今なんて?」

《あ!今ちょうど宅配来たから!じゃあまたね、慎也》

 そのまま電話は切れた。俺はまた、一人で部屋に取り残された気分だった。何もしない時間がしばらく続いた。

 途端に、なつみの言っていたセリフが気になった。いや、もう気づいていたことに、改めて気付かせてくれただけなのかもしれない。きっと、下ばっかり向いてちゃダメだ、前を向いた頑張れ。なつみはそう言いたかったんではないだろうか。そんな人の言葉の勝手な解釈が頭をよぎるが、無理やり納得できないわけでもない。

 電源の切れた携帯を、そのまま握りしめている。真っ暗になった画面を見つめると、次に俺が何をすべきかが見えてきそうな気がした。

「……」

 この気持ちが、例の恋というものだろう。世間はそれで持ちきりらしいが、自分はお世辞にも詳しいとは言えない。だが、あの人に対するこの感情が嘘であるはずがない。このもどかしさは、きっと彼女が心の中にいるからに違いないのだ。

「……はぁ」

 ため息が出てしまうのに決して深い意味はない。ただ自分を落ち着かせるためなのだろう。俺は携帯のロックを解除して、彼女の連絡先を探した。

 半年前までは、人付き合いなんてものを知らなかった。人が嫌いだった。童貞で、友達もいないし必要もない。殻に閉じこもることで自分を守ってきた。でも、彼女に会ってからはそんなこともなくなった。こんなどうしようもない人間だったのに、今では「友達」もたくさん増えた。くだらない人間だった俺を、根本から変えてくれた。

 曲がりなりにも決心はついていた。俺は彼女の連絡先をタップし、用もないのにただ電話をかけた。

「……」

 すぐだった。スピーカーから出てきたのは、大きな雑音と必死で叫ぶ彼女の声だった。

《慎也くん!助けて!お願い!!》

「え、あ、え??」

 俺が焦ってパニックになっている間に、電話はすでに切れていた。

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