第33話 2人目のマリオネット
空車のタクシーがなかなか来ず、仕方なく近所のタクシー会社に電話を入れた。5分後、約束の時間にタクシーはやってきた。
「薪葉小学校まで」
俺は一人でタクシーに乗り込んだ。橋本先生は自分の車で教育委員会に、田所さんはなつみの家に向かってくれている。
タクシーは順調に進み始めていたが、目の前の赤信号でゆっくりと止まった。
「あれ、お客さん、もしかして急いでる?」
「はい。かなり」
「あらそう。じゃあ急ぐね」
信号が青に切り替わると、タクシーはすごい勢いで飛び出した。エンジンの重低音がお腹に染みる。
タクシーが大きく左右に揺れる中、俺はカバンをあさった。中から携帯電話を取り出して咲ちゃんに電話をかけた。しかし仕事中なのか、彼女は電話に出なかった。
「ごめんね〜。今日混んでるから、ちょっとかかりそうだわ」
「あ、いえいえ。ありがとうございます」
運転手さんに軽く会釈をして、今度は河本さんに電話をかけた。彼もまた咲ちゃんと同じく、薪葉小学校で先生をしている方だ。つい先日、駅で会ったばかりだ。
河本さんはすぐに電話に出た。
《もしもし、河本です》
「もしもし、池谷です。今、時間大丈夫ですか?」
《あぁ、池谷先生。授業があるので、5分以内なら大丈夫です》
「それではスピーディーに。前田の双子のお子さん、えーっと確か倫太郎くんと真紀ちゃんだったっけな、は今日学校に来てます?」
《あれ?てっきりあの事件のことかと……》
「実はこれもその件なんです。あと、長居も今日学校にいますか?」
《長居先生はいらしたと思います。倫太郎くんと真紀ちゃんはえーっと、少々お待ちください。今確認してきます》
長居が学校に来ていることは、俺にとっては少し予想外だった。グングンと加速するタクシーの中で、俺は頭を悩ませる。
《もしもし、聞こえます?倫太郎くんと真紀ちゃん、今日はお休みです!池谷先生!!》
耳に当てた携帯のスピーカーから、やや大きめのボリュームで河本さんの報告が聞こえた。
「やっぱりそうですか……。ありがとうございます」
倫太郎くんと真紀ちゃんが学校に来ていないとなると、やはり誘拐は既に起きていると考えて問題はなさそうだ。だがしかし、誘拐した犯人と思われる長居は学校に来ている。小学生とはいえ、2人も同時に誘拐するのなら見張っておくのが普通な気がする。しかし、長居のことだ。逃げないようにロープで何重にも括り付けたりしているのだろうか。そう考えると、2人の命が危ない可能性だってある。
《大丈夫ですか?先生》
「は、はい。あの、倫太郎くんと真紀ちゃんの担任の先生って咲ちゃんですよね?」
《はい、そうですけど》
「咲ちゃんに代わってもらえませんか?電話をかけても繋がらないんです」
《大石先生は今週からお休みしてますよ、池田先生。この前会った時言いませんでしたっけ?》
「あ、そ、そうだ。すいません。完全に忘れていました」
多くの事態が起こって気が動転していたせいか、そんなことも忘れていた。冷静に思い出せばわかることだ。弁護士としてあってはならない。深く反省の念に駆られた。
《では、池谷先生。私もう授業なので……》
「あ、ごめんなさい。ありがとうございます」
電話は切れた。目当ての情報は手に入れることができたが、それで状況がハッキリと明らかになった訳ではなく、逆に複雑になったと言わざるを得ない。前田の双子は学校を休んでいるが、長居はいつも通り出勤している。これで本当に誘拐が起こっていると断言できるかと言われれば、怪しいところだ。
「あと10分ぐらいで着くから。もうしばらく待っててな」
「あ、ありがとうございます」
俺の顔がよほど苛立っているように見えるのだろうか。運転手さんは俺に定期的に声をかけてくれた。タクシーはその都度、大きなエンジン音を上げて走っていく。
張り詰めた空気は依然として続いている。少し頭を冷やしたかった。俺はタクシーの窓を開けて、冷たい風を顔に当てた。思わず震えてしまいそうになったが、今の俺にはそのぐらい強い風の方が都合が良い。
タクシーはその時、俺のマンションの通りを走っていた。風に抗いながら視線を上に向けると、ちょうど俺のマンションが視界を通り過ぎていった。
「ん?」
自分でも何かはわからない。だがその瞬間、俺は何かを目にした。本能的に、俺は急いで後ろを振り返った。それは、マンションのある一室のベランダで、咲ちゃんが大量の洗濯物を干している光景だった。
「さ、咲ちゃん?」
思わず口に出してしまうほどだった。おかしい、というのが直感だ。学校を休んでまですることが洗濯物?しかもあんな大量に?あれはどう見ても1人の洗濯物の量ではない。
いや、待てよ。まさかこの事件に、咲ちゃんが関わっているということは考えられないだろうか。咲ちゃんは確か以前、長居にパワハラを受けていた張本人だ。もしそれがエスカレートしていて、長居の犯罪に加担させられていると考えると……。
「運転手さん!!Uターンです!!この道をUターンして下さい!」
「はい、かしこまりました」
左折レーンにいたタクシーは、信号の手前で急ハンドルして右折レーンに侵入した。後方車からのパッシングなんて気にせず、車は強引にUターンして加速を開始した。
「あのマンションです!あの前に止めてください!!」
今度こそ、俺は完全に理解した。長居は咲ちゃんに常習的なパワハラやセクハラを繰り返すことで、今回の誘拐事件に加担させていたのだ。咲ちゃんは前田の双子の担任の先生だ。まだ小さい子供を誘拐するのなら、高圧的に縛り付けるのではなく、咲ちゃんに子供を預らせた方が簡単にいくとでも考えたのだろう。
それが事実だと仮定すると、咲ちゃんに対する長居のパワハラがあったことにも説明がつく。長居はきっとこの時のことを考え、当時から咲ちゃんを脅すような態度を取り続けていたのだ。あの時からすでに、長居の作戦の内は始まっていたのだ。咲ちゃんは、最初から長居の操り人形に過ぎなかったのだ。
「はい、着いたよ。お客さん」
タクシーは鋭いブレーキ音と共に停車した。俺のこの仮説が正しければ、長居が誘拐した前田の双子、倫太郎くんと真紀ちゃんは、今は咲ちゃんの家で監禁されている可能性が高い。
「これで。お釣りは大丈夫です」
10000円札を運転手に手渡し、ドアを勢いよく飛び降りた。今、俺の頭には事件を解決すること以外存在しない。自分の鍵を使って、俺はマンションのエントランスを通り抜けた。
「あ、えーっと……」
俺と咲ちゃんが同じマンションだということは、以前から知っていた。だが、肝心の彼女の部屋番号が思い出せない。エレベーターに乗り込んで、ボタンを押す手が止まる。
「うん、あー、えーー……」
考えている時間が徐々に無駄に感じ始めてきて、とりあえず6を押した。先ほどのタクシーからの光景を思い出すと、自信はないがそんな気がした。
エレベーターのドアが開いて、6階に降り立つ。わずかな記憶を頼りに、マンションの廊下を走り抜ける。
「あ、こ、ここだ!!」
運と奇跡が招いた偶然の出来事なのだろうか。6階の一室に「大石」と書かれた表札を発見した。
ピンポーン。
俺は迷いもなくすぐにインターホンを鳴らした。一分一秒を争う事態なのに変わりはないが、しばらく待っても反応はなかった。俺はさらに何度かノックをした。でも、その結果は同じだった。
「咲ちゃん、聞こえる?池谷です!」
中に彼女がいるのはもうわかっている。俺は耳をドアに押し当てて、耳を澄ました。たまたま、部屋をドタバタ走り回る音がした。前田の子供が中ではしゃいでいるのだろうか。やはり、この中に誘拐されているという俺の推理は間違ってはいなさそうだ。
「咲ちゃん、聞こえる?」
俺は再度、ドアの奥に声をかけた。今度は少し声を大きくしたみた。
「……」
「さ、咲ちゃん!?」
気のせいではない。ドアのすぐそこに、人の気配を感じた。俺の勘違いなどではなく、目の前に咲ちゃんの存在感を感じた。
「大丈夫、咲ちゃん。俺がいる。俺がいるから」
その言葉が、本当に俺から出たものだと気づいて少し驚いた。きっとその言葉は、俺が弁護士としてだけではなく、人として、咲ちゃんを助けたいという揺るがない本心に基づいたものに違いない。
数秒後、ガチャっという音と共にドアがゆっくりと動いた。室内の光が外に漏れてきて、薄暗いマンションの廊下を照らした。その先には、怯えて体が震えている咲ちゃんの姿があった。
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