第32話 1人目のマリオネット

 翌日もいつも通りの時間に出社した。しかし少し曇っているせいか街はいつもより暗く、やや静かな雰囲気があった。連日の激務で疲れ切っているであろう橋本先生は、まだデスクに突っ伏したまま眠っている様子だった。

「おはようございます、池谷先生」

「お、おはようございます」

 田所さんはいつものように俺に挨拶をしてくれたが、どこか感覚が違う。この事務所全体の空気が澱んでいて、奇妙な緊張感が張り詰めているようだった。

「どうかしました?」

「あ、え、いや、別に」

 田所さんは俺のいつも以上にぎこちない様子を見破ったのか、立ち止まってそう聞いてきた。考えられる原因はおそらく昨日の出来事である。事務所の体力が底をつこうとしている事実は、俺の思考を取り乱し冷静さを奪っていくのだった。

 居ても立ってもいられず、応接室に入った。ホワイトボードは昨日のまま残っている。キャップの開いたマーカーがテーブルの上に散乱したままで、無造作に並べられた書類が床にも広がっている始末だ。

「今はこっちだ」

 柄にもなく、自分を励ますような独り言が口をついて出た。事務所のことは橋本先生に任せておけばいい。俺はこの事件のことを、1秒でも早く片付けなくては。それが事務所を結果的に助けることに繋がるのだ。

 俺はホワイトボードを食い入るように見た。長居と前田の尻尾が掴めない限り、今回の事件はまた二人の手によって隠蔽される。絶対どこかにあるはずだ。その証拠が。

 その時だった。

「ちょっと池谷先生!」

 応接室にいる俺を、田所さんが大きな声で呼んだ。彼女の悲鳴にも似たその声は、非常事態が起きているということをすぐに俺に気づかせた。俺は応接室のドアを勢いよく開けて、田所さんを探した。

「こっちです!テレビです!ニュース見てください!」

 俺は田所さんの元へ走り、そこで言われた通りテレビに目をやった。俺は驚きのあまり、言葉を失った。


《薪葉市教育委員会が、8年前に起きた市内の公立小学校でのいじめを原因とした自殺事件が起きていたことを認めました》


 ニュースキャスターが淡々と記事を読んでいる。画面の右上には「速報」の文字が記されている。画面が切り替わると、薪葉小学校の建物が映し出された。


《薪葉市立薪葉小学校は今日未明、8年前に学内で児童が2人自殺していたことを各社マスコミに明らかにしました。原因は教育委員会が推し進めた教育AIロボット「EDY」のSNS機能が原因で、教育委員会はこの事実を隠蔽するよう、薪葉小学校を脅していたとみられています。薪葉教育委員会はこのことについて問われると、詳しくは今日18時ごろの記者会見で答える、としています》


 画面が切り替わって、またキャスターの顔が映し出された。


《続いてのニュースです。……》


 田所さんはテレビの電源を黙って切った。表情からは動揺が見て取れるが、おそらく俺はその比ではないのだろう。冷や汗が滴り落ちる感覚を覚えた。

「ど、どういうこと……?」

 訳がわからないとはこのことだ。わずか30秒ほどのニュースだったが、その内容は極めて驚くべきものだった。俺は、電源が消えて真っ黒になったテレビの画面を、しばらく見つめている他なかった。

「橋本先生!橋本先生!!」

 田所さんは橋本先生を呼びに行った。いつも冷静な彼女ももう、落ち着いてはいられない。それもそのはずだ。今テレビで報道された内容は、俺たち事務所の人間しか知りえない内容だったのだ。

「どういうことだ!池谷!」

 先ほどまで寝ていた橋本先生だったが、田所さんの一報を聞いてすぐに飛び起きたのだろう。橋本先生のデスクの方から大声で呼ばれた。

「わ、わかりません!」

 俺はそう返した。

「今すぐあいつに電話しろ!あの週刊誌の男だ。ネタを潰されたあいつだ!」

「は、はい!」

 こんな状況でも、橋本先生は冷静だった。事務所から情報が漏れたと考えるより、その元々の情報元である武田さんが関与していると考える方が筋が通っている。

 俺は自分のカバンに手を突っ込んだ。武田さんの電話番号は貰っていたはずだ。ガムの包み紙だったはずだ。2、3秒カバンを掻き回すと、それらしい銀紙の感触の物に触れた。それを引っ張り出すと、まさしく武田さんの電話番号が書いてある紙で間違いなかった。

 携帯を片手に、番号を入力する。通話ボタンを押すと、武田さんは1コールで出た。

「もしもし、池谷です!」

「おい、どうなってんだお前!」

 武田さんは電話越しの俺に激しい怒号を浴びせた。もうすでにこの事態を把握しているようだ。

「それはこっちのセリフです、武田さん」

「あぁ?お前じゃねーのか、情報漏らしたやつは?」

「絶対に違います!そんなことするはずありません」

「チッ。どっから漏れたんだクソが」

 武田さんの態度からも、彼から情報が漏れたと考えるのは無理がありそうだ。そもそも彼はネタを潰されている身だ。証拠を潰された彼にそんなことが出来るはずもない。

「また何かあったら教えてください」

「おう。お前もな」

 それだけ言うと、電話はすぐに切れた。橋本先生と田所さんは俺の電話での様子を静かに見守っていた。

「武田さんじゃなさそうです。めちゃくちゃ怒ってました」

 それだけ言うと、橋本先生は大きくため息をついた。

「一体どうなってんだ。なんで急にこんなことになるんだ」

 長居と前田が8年も隠蔽していた自殺事件の真実が、とうとう世の明るみに出た。それだけ聞けば、事件が解決に向かっているようにも思えた。しかし、それはあくまで表面上の解決に過ぎないことを、俺たちはすぐに悟った。この事件にはまだ裏がある。裏がなければ、このタイミングで都合良く事実が明らかになる訳がない。何者かの力が、まだ故意に加えられているに違いない。

「いや、ちょっと待てよ」

 と、突然橋本先生はつぶやいた。

「もう一回ニュース映像を見せてくれ」

「はい」

 田所さんはニュース映像を即座に録画していたようで、テレビリモコンを少し触るとすぐに映像を流してくれた。


《薪葉市立薪葉小学校は今日未明、8年前に学内で児童が2人自殺していたことを各社マスコミに明らかにしました……》


 橋本先生はここで映像を止めた。まだニュースの冒頭部分で、俺には特に大事なことを言っているようには聞こえなかった。

「今、大事なことを聞き逃しそうになったな」

 橋本先生はそう言った。その表情にはさっきまでの緊張感はなく、ある種の余裕をも感じ取れた。今の一瞬で、何かに気づいたようだ。

「え?今の部分で何かわかったんですか?」

 俺と田所さんは顔を見合わせた。橋本先生が一瞬で気づいたことに、俺たちはまだ勘付けないでいる。

「よく考えてみろ。今回の自殺隠蔽事件を知り得る人間は、この世に何人いる?」

「えっと、橋本法律事務所の3人と、あとは週刊誌の武田さんと編集長……ぐらいですかね」

 指を折りながら数えた。俺の頭に浮かんだ人間は5人。情報をリークしたのは、この中の人間で間違いない。

「馬鹿かお前は。こんなの幼稚園児に聞けばすぐに答えてくれるぞ」

「え?」

 橋本先生の言いたいことに気づくには、俺には少しの時間が必要だった。

「え?も、もしかして……」

「長居と前田だ」

 確かに橋本先生の言うとおり、俺はこの事件を知り得る人間として、隠蔽の張本人である彼ら2人を除外してしまった。灯台下暗しとはよく言ったものだ。しかし、彼らは今までこの事件を隠蔽し続けてきた。彼ら自身がリークすることは考えられない。

「でも先生、長居と前田は張本人です。奴らが情報を流すわけがありませんし、結局このリークは元の5人に限られます」

「ああ、俺も最初はそう思ってた。だからニュース映像をもう一回見た。するとやはり、答えはそこにあった」

 橋本先生はきっと、俺の思考の数歩先までを見透かしているに違いない。彼の言うことを確かめるべく、俺はリモコンをテレビに向け再生ボタンを押した。


《薪葉市立薪葉小学校は今日未明、8年前に学内で児童が2人自殺していたことを各社マスコミに明らかにしました……》


 俺はあることに気づいた瞬間、停止ボタンを押した。

「薪葉小学校が……情報を明らかにした?」

 俺は疑問に思ったキャスターのセリフを繰り返した。おそらく、俺の勘は当たっていた。橋本先生は小さく頷いた。

「こういったことは普通、教育委員会が発表するのが通例だ。でも今回は違う。学校側が勝手に発表している」

「な、なるほど」

 それは、キャスターの発した言葉の小さな違和感から紐解いた考察だ。しかし、そう考えると更なる事実が見えてくる。

「でも橋本先生、学校と教育委員会はグルになって隠蔽工作していた筈じゃないんですか?急に学校側が発表するっておかしくありません?」

 田所さんはそう尋ねた。だが、その質問に対する答えはもう既に俺の中にある。あの男ならやりかねない。あの男は、自分の身を守るためなら何でもする。そういう奴だ。

「長居です。長居が前田に罪を擦りつけて、一人で逃げようとしてるんじゃないでしょうか」

 俺は自信を持ってそう言った。長居が前田を裏切ったと考えると、今回の件は全て説明がつくのだ。

「池谷、よくやった。正解だ」

 橋本先生は俺を誉めた。こんなことは過去に一度もなかった。少し驚いたが、喜びを噛み締める余裕こそ今の俺にはない。事件が解決したわけでは決してない。

「でも池谷先生、ちょっと待ってください。長居が前田を裏切ったとしても、教育委員会は今日の午後に会見をします。その場で前田が全てを話せば、長居だって言い逃れできない筈です」

「恐らくですが、長居は前田の弱みを握っています。それを盾に、自分だけ逃げるつもりなんでしょう」

「よ、弱み?また新しいことが……」

 彼女が混乱するのも無理はない。この隠蔽事件は、更なるチャプターに移ったと言っても過言ではない。そして、まだ俺たちはそこに辿り着けていない。

 俺は駆け足で応接室に向かった。ドアを開けて、事件の概要が書かれたホワイトボードの前に立った。

 気づいたことをただ書き殴っていただけのホワイトボードは、正直に言って見やすいものではない。しかし、今改めて見てみると何もかもが違って見えた。

 しばらくして俺の目に止まったのは、前田が離婚を申し出た時期が、武田さんが隠蔽を記事にした時期の直後だったという点だった。ホワイトボードに青い付箋で貼られていた。

 今までは前田の離婚の理由がわからず、時期が重なっているのも「偶然」の2文字で片付けられていた。もし、長居が元々前田を裏切ることを決めていたとしたら……?

 半年前に、武田さんが隠蔽事件を記事にするも潰された。その時はギリギリ耐えたものの、長居は隠蔽の限界を覚えた。バレるのも時間の問題だとでも思ったのだろう。そこで、共犯である前田に罪をなすりつけることを決意する。

 しかし、前田に罪を擦りつけるには前田の弱みを握らなければならない。しかし、前田の弱みなんてあるのだろうか。彼は教育委員会に務めるただのしがない公務員だ。長居が前田を脅せるような弱みなんてあるのだろうか。

「前田の弱みか……」

「自殺事件の責任問題だ。相当な弱みな筈だ」

 橋本先生はそう言う。が、しばらく考えても前田の弱みになりそうなことは1つも出てこない。

「なんか大事なものを長居に取られちゃったとか?」

 隣にいた田所さんはボソッとつぶやいた。あり得ない話ではない。

「前田の大切なものって例えば?」

 橋本先生は聞いた。

「家族とか?」

「いやいや、田所さん。彼は離婚したんですよ。自らの意志で……」

 自らの意思で……?前田は自ら離婚の道を選んだのか?ふと脳裏に疑問が浮かぶ。

 いつかのなつみの話を思い出した。前田が離婚を持ちかける直前まで、いつも変わらず夫婦円満だったと言っていた。彼女も突然離婚になって悲しんでいた。

 なぜ?なぜ前田は急に離婚をしたいと言い出したのか?その理由が、長居にそそのかされたのだったとしたら……!

「わ、わかった……。わかったぞ!!」

 声が震えているのがわかる。お腹から出た自分の声が、まるで自分のものではないように、脳内に響いて何度もこだました。

「本当か!?池谷!」

 橋本先生は驚きを隠せないでいた。しかしそれは俺自身も全く同じで、激しい動揺と推理を終えた爽快感が半々になって心を揺さぶっている。動悸が治らないのはそのせいだろう。

「何がわかったんだ?」

「前田の離婚は、偶然でも前田の意思でもありません。長居に仕組まれたものだったんです」

「長居が?前田に離婚をさせた?なぜだ?」

「長居の目的は一貫しています。前田に罪をなすりつけたかったんです。だから、前田の大事なものを奪って、それを人質に前田を脅迫しようとした」

「ま、まさか……」

「長居が前田に離婚をさせた理由は、前田の子供が目的です。前田は家族思いで、子供のことをいつも可愛がっていた。子供を誘拐し脅迫すれば、前田に罪を被ってもらえると考えたのでしょう」

「それじゃあ、離婚はなぜ?」

「なつみのガードが固かったからです。前田に親権が移れば、簡単に子供たちと接触できると考えたんだと思います」

 俺の推理に穴はないように思えた。そう考えると、全てのことに辻褄が合う。もうこれ以上に最適解は絶対に存在しない。そういうことだ。つまり、前田は最初から長居の操り人形、マリオネットに過ぎなかったのだ。

「ということはだ、池谷」

「はい」

「長居が情報を流したってことは、もう既に前田の子供は誘拐されたってことか?」

「残念ですが、そういうことになります」

 そうと決まれば、俺たちのやるべきことはただ1つに過ぎない。前田の子供を救い出し、長居の全ての悪事を公にする。

「急げ!」

 橋本先生は、コートも着ずに事務所を飛び出した。

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