第31話 事務所のタイムリミット
橋本法律事務所の応接室にあるホワイトボードを、俺は自分のデスクからぼーっと眺めていた。あれ以来目立った進展はなく、ホワイトボードの空白だけが段々と少なくなっていった。書き殴られた大量の情報と推測は、決して線でつながることはなく、ただ無意味にそこに存在しているだけだった。
「今日はもう終わりだ。帰れ」
橋本先生はそう言った。時刻は今まさに日付を超えたばかりだ。
「い、いや、でも……」
「気持ちはわかる。でも今の俺たちには証拠がない。隠蔽した証拠がなければ、動こうにも動けない」
橋本先生はおそらく正しい。今持っている少ない情報だけで、到底彼らを追い詰められるとは思えない。でも、黙って家に帰れるような穏やかな気持ちではない。人が死んでいるんだ。二人も。
「橋本先生はどうなさるんですか?」
「俺?俺はここで寝る」
「じゃあ僕も居させてください」
「嫌だよ。なんでお前と一緒に一晩過ごさなきゃダメなんだ」
「まあ、確かに……」
仕方なく帰宅の準備を始めた。と言っても他に仕事があるわけでもなく、ここ最近のカバンの中身は空っぽに近い。ノートパソコンだけを放り込んで、カバンを閉じた。
前田に事務所が訴えられて以来、橋本法律事務所への信頼は徐々に落ちていっている。一度はなんとか持ち堪えたものの、そこからは少しずつ仕事が減っていた。橋本先生もはっきりと口に出しては言わないが、長く一緒にいればそんなことはすぐにわかる。この一連の騒動を早く解決しなければならないのには、そういう事情もあった。ウチの事務所が潰れるか、前田と長居の隠蔽を暴くか。両者共に瀬戸際に立たされている。
「すいません。では失礼します」
「おう。お疲れ」
「お疲れ様です」
俺はカバンを左手に持ち、ゆっくりと席を立った。悔しさを滲ませながら、事務所のドアに手をかけた。暖房のかかった部屋とは対照的に、外の世界は真冬の凍えるような寒さだ。ドアは異様に冷たくて、俺は思わずその手を離してしまった。
「ほら、何やってんだ。早く帰りや」
俺にとっては一瞬の出来事だったが、実際は思ったより長い時間が経っていたようだ。ドアの前に立ちすくむ俺の足取りは、それだけズッシリと重かった。
「あ、あの。橋本先生」
「ん?どうした?」
これを聞くことがベストであるとは思えない。でも、そろそろそれを意識することも必要になってくるかもしれない。考え始めると一層、このまま帰るわけにはいかなくなった。
「こんなこと聞くのも、あれですけど……」
「おう」
「……事務所って、いつまでもちますか?」
俺の失礼な質問を、橋本先生はどう受け取ったのだろうか。橋本先生はパソコンから目を離すことなく、深くため息をついただけだった。
「なあ、池谷」
「は、はい」
やがて、橋本先生は口を開いた。だがそれは質問に対する答えではなかった。
「お前、柏田法律事務所って知ってるか?」
「は、はい。知ってます」
「いい事務所らしいぞ。ウチよりもかなり大手だしな」
「……」
俺には返す言葉がなかった。何も言えなかった。質問には答えていなくても、きっとそれが橋本先生の答えなのだろう。
自分の中で、溢れ出す何かがあった。これが悔しさなのかは、正直なところわからない。だけど、この事務所がもし本当にそうなってしまったら、俺は果たして前を向いて生きていけるのだろうか。その結論を見つけ出す自信すらない。
ここに勤めて何年になるのだろうか。最初の頃こそ、俺は事務所の足を引っ張り続けてきた。その度にこっ酷く叱られたが、それが俺を強くした。特にここ最近は、ようやく戦力になってきたのでは、と自分でも思えるようになってきたばかりだった。
頬を流れる涙に気づいたのは、それが地面を濡らしていることが見えてからだった。嗚咽と共に出る後悔の涙を、橋本先生は止めようとはしなかった。
………………………………………………………
有村は叔父に了承を貰い、常連のお客さんには署名をお願いすることにした。その効果は抜群で、数日間で40人を超える署名を集めることに成功した。
「そうなの?なら喜んで書かせてもらうよ。ここが潰れては欲しくないからね」
ありがたいお言葉だ。常連さんのそう言った言葉を貰えると、有村自身のやる気にも繋がった。店を続けることに、これだけの人が賛同してくれるとは、正直想像もしなかった。
「ありがとうございます。本当に助かります」
「いやいや、こちらこそだよ。これからもよろしくね」
嬉しいという言葉以外に、これを説明できる言葉は存在しない。客商売である以上、最も大事な要素をこの店は持っている。それはお客さんの愛だ。これほどまでに愛されている店を、有村は見たことがないと、自信を持ってそう言えた。
店を閉めた後、後片付けをしている叔父に話しかけた。
「今度、街中でも署名集めてもいい?」
有村の叔父は顔色を曇らせた。
「結衣ちゃん、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。お店だけでも結構集まったんだから」
署名を集めることが法的な何かになるとは思えないが、再開発計画を継続するプレッシャーにはなり得る。再開発を進めることが住民の意思ではないことを、伝える手段にはなり得る。結果なら後からついてくると考えていた。
「でもね結衣ちゃん、企業の人にも迷惑かかっちゃうし……」
有村に比べ叔父は悲観的だった。どうせ署名なんて集めても変わらない、と口うるさく言うのだった。
「企業に気を遣っちゃダメよ。企業からこの土地を守らなきゃダメなの」
「まあ、それはそうなんだけどね……」
叔父も本心は有村と同じなのだろう。出来ることなら店を続けたいし、この土地にマンションや何やらが建てられて生まれ変わってしまうことに抵抗はある。だからこそ、有村の提案を飲んだ。
でもそれと同時に、諦めてもいいんじゃないか、という感情があったこともまた事実に違いない。歳をとって思い残すこともなく、また変に大企業に噛みついて余計に疲れるよりは、貰えるお金を貰ってのんびりと過ごしたいのだろう。
有村だって、別に争いが好きなわけではない。でも、この街にはこの土地に根付いた文化がある。それを周囲の建物ごと全てを取り壊し、巨大な箱物を建てることには大きな嫌悪感を抱く。遠慮などしていられる暇はない。大事なものは、自分で守らなければいけないのだ。
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