第30話 はじめのひとり

 諦めの悪い有村だった。大和田屋の賛同が得られないのはもちろんショックだが正直、想定内ではあった。

「署名活動?やっぱりそうだよね」

 有村は、会社の昼休みに内田と昼食を取っている。職員用の休憩室にある、年季の入ったソファーに2人で座り、腰の高さほどしかないテーブルに弁当を置いて、前屈みになりながらそれを食べる。

 ことあるごとに、内田は笑った。有村もつられて笑った。内田はストーカー事件が落ち着いて以来、前にも増して元気になった様子だ。

「署名ってどんな感じでやればいいのかな?」

「それこそ、お店に来たお客さんに声をかけるところから始めてみると良いかもですね」

 てんやの件だ。内田に聞いても何も変わらないだろうと思って、軽い気持ちで聞いてみたものの、意外とちゃんとした答えが返ってきて驚いた。有村自身も、署名を集めることも考えてはいたが、言葉にするほど実際に行動することは簡単ではない。

 てんやに潰れて欲しくない人が、果たして何人いるのだろうか。そのうち何人が署名してくれるのか。それが開発会社に届いて、開発事業を止めてくれるのか。そんなことを考えると、署名を集めることもハードルが高いように見えた。

「池谷先生にはご相談しました?そういうのは、私じゃなくて弁護士さんの方がいいと思いますよ」

 真っ当な意見だ。でも、今回ばかりは池谷には頼らないと、有村は決めていた。

「でもね、慎也くん忙しそうだし、今回は一人でどうにかしようかなって思ってるの」

「それなら、私手伝いましょうか?」

「え?」

 内田は軽々と冗談を言うようなタイプではない。ただ、今回ばかりは、どうしても一人でやりたい。

「ごめん。気持ちは嬉しいけど、一人でやることに意味があると思うの」

「そういうことなら、全然大丈夫です。でも先輩、抱え込んじゃうとこありますから。ちゃんと何かあったら相談してくださいよ」

「うん。もちろん」

 ありがたいことには変わりない。その気持ちに応えたいのは山々だが、てんやを守るという責任感には変えられない。申し訳ないと思いつつも、内田に改めて礼を言った。

 割り箸でだし巻き卵をつまむ。口に運ぶと、旨味がジュワッと口に広がる。冷えても美味しい弁当を作ることにはまだ慣れないが、だし巻き卵だけは自信がある。

「あ、そうだ。私が書きましょうか?最初の署名」

「え?いいの?」

「もちろんです。ないよりある方がマシです」

 内田の考えはシンプルなように見えて、意外と芯を食っている気がする。

「わかった。すぐ作ってみる」

 弁当の中身はあと2割ほど残っていた。一瞬悩んだが、すぐに蓋を閉じて席を立った。内田もまだ食べ終わってはいなかったが、同じように切り上げた。有村は自分のデスクに戻ると、すぐにパソコンを開いて作業を始めた。思い立ったら、すぐに行動できるのが彼女の強みだ。

「これでいいかな……?」

 ネットに転がったあったテンプレートをコピーし、タイトルを「再開発反対署名活動」に変更した上でプリントアウトした。出てきたB5サイズのプリントは、20人まで署名できるようになっている。

「いいと思います!じゃあ、私書きますね」

 内田は署名欄の1番上に堂々と名前を書き、印を捺した。有村はそのプリントを彼女から預かると、瞬きを何度か繰り返した。こんな感覚は久しぶりだ。それは有村が、自らの力で何かを成し遂げたという達成感だ。無論、まだ集まった署名はたったの一人だ。しかし、彼女ならできる気がしてならない。小さいが、確かな一歩だった。

「とりあえず、最初の目標は100人ですね」

 内田は言う。それで何が変わるかなんて、有村にわかったことじゃない。でもその使命感に駆られてしまうと、周りが見えなくなることもあった。

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