第19話 変わらぬ気持ち
お世辞にも、部屋が綺麗とは言えなかった。前回来た時より荒れていて、床にも物が散乱している様子が見受けられた。それは恐らく彼女の精神状態と一致しているのだろうと、俺はそう考えた。
「ごめん、なんの連絡もなしに来ちゃって」
「うん。なんか一言くれたら良いのに」
落ち着いた喋り口調だが、目が赤い。いつもの彼女では到底ない。
「それと、改めて謝る。この前は本当にごめん」
「……。う、うん。もう別に気にしてないから。私も悪いことしたし」
「で、でも、俺は」
「今日は何しに来たの?」
俺の言葉を遮って、彼女は聞いてきた。なつみはきっと俺が何を言おうとしたのか、わかっていたはずだ。
「お子さんのことだよ。なんで親権が相手側に渡ってるんだ?」
「慎也には関係ないことでしょ」
「か、関係あるよ。離婚協議を取り持ったのは俺だよ」
「でもその時は破綻したじゃん。今回の離婚は私たち夫婦で相談して決めたの」
「相談?一方的に奪われたんじゃないのか?相手に非があるのに、なぜなつみが我慢しなくちゃならないの?」
「もうやめてよ!これはもう終わったことなの!」
なつみは大きな声で叫んだ。無理矢理抱え込んだストレスやプレッシャーが、まだ彼女を蝕んでいる。今はまだ俺に言えないことがきっとある。聞いたあげるだけでもいいから、力になりたい。
「なつみ……」
俺はその場で泣き崩れた彼女を、ソファーに誘導して座らせた。彼女を少し落ち着かせる時間が必要だと感じた。背中をさすって、彼女が自分から口を開くのを暫く待った。
「私、ニュース見たよ。慎也の事務所の」
5分もかからなかった。彼女はまたゆっくりと話し出してくれた。
「そ、そっか」
「ごめんね。迷惑かけたよね」
「ううん。なつみのせいじゃない。それは絶対違う」
急いで否定した。むしろ彼女だって、前田に散々な目に合わされた筈だ。
「なつみだって被害者だ。あの男に騙されたんだ。子供をなつみから奪っていったのだって……」
「わかってる。わかってるよ……。慎也が隆二さんのことを嫌いだってことも、本当はあの人は悪い人だったってことも」
知らぬ間に、なつみの頬には涙が流れていた。滴り落ちるその涙を、俺はなす術なくただ見ていた。
「でもね、私たちは数日前まで夫婦だったの。長いこと付き合って、プロポーズされて結婚して。双子ができて、幸せな家庭を築いて。私たちも普通の夫婦だったの」
それは人生で初めてだった。彼女が俺の目を真っ直ぐ見ながら話してくれている。何の濁りもない綺麗な眼差しを俺に向け、身振り手振りで思いを伝えようとしてくれている。そんな彼女を見るのは、きっと後にも先にもない気がした。
「最近のあの人はおかしい。急に離婚するって言い出したり、慎也くんに迷惑をかけるようなことをしたり。でも忘れられないの。昔のあの人は誰よりもカッコよくて優しくて、強い人だった。そして私はそんな彼が大好きだったの」
俺は彼女の話を黙って聞いていた。だが俺は途中で彼女から視線を逸らしてしまった。押し寄せる壁のような、そんな何かがあった。
「だから、私は慎也とは違う。私はあの人を悪者だなんて決めつけれない。世界中の誰もがあの人を嫌って、どんなに馬鹿にされても、私はあの人を信じたい。そうじゃなきゃ……、そうじゃなきゃ、元妻の私以外、誰が隆二さんを信じてあげられるの?」
「そ、そ、そっか……」
俺には言い返す言葉なんて1つもなかった。俺は唖然として黙り込んでしまった。
俺は10年来の付き合いであるなつみのことを、何でもわかっていたつもりでいた。だけどそれは全くもって違ったようだ。彼女は俺が思ったよりも遥かに強く、それでいて芯のある人間だった。俺は彼女の人の大きさにひどく驚かされた。
「だから、今は慎也に話すことは何もないの。これは私たち夫婦の問題だから。親権のことも2人で決めたの」
「いや、でも……」
俺は全く納得できなかった、彼女が絶対に手放したくなかったであろう親権を奪われてもなお、まだ前田を信じようとしていることに。また、俺を全く信用してくれていないことに。心の中では腹が立っていたレベルかもしれない。
だが、彼女の言っていることの方が、たしかに筋が通っていた。いくら弁護士とは言えど、親権の所在を含めた夫婦問題に口を出そうとしているのは俺の方だった。
しかし、彼女の発言を考慮してもなお、前田の言動には疑問符がつく。橋本法律事務所を訴えたのがただの嫌がらせで、圧倒的不利だった旦那が親権を奪ったのが、ただの自己満足ならそれ以上問題はない。だが、この2件の不自然な出来事が裏で繋がっているのではないか、というのが俺や橋本先生を含め事務所の考えだ。
その点で、なつみは不安定な立場だった。事務所側にも前田側にも加担していると言える。場合によっては彼女に危険が及ぶ可能性だってある。
そんな考えが頭を駆け巡る。だけど彼女の気持ちが揺るがない限り、解決の糸口はここにはないようにも思えた。しかし何故か、なつみにこだわりすぎる自分もいた。
「で、でも、もしなつみが騙されてたら危険な目に」
「大丈夫。その時はその時だから?心配しないで」
「な、何言ってんだよ!もしなつみに何かあったら、俺、どうすれば……」
馬鹿みたいだった。そう気づいたのは俺が珍しくも感情的になっていたからであった。自分でも知らなかった、俺自身を突き動かす何かに心を奪われている、そんな気分がした。
そしてその正体を突き止めるのに、それほど時間は必要なかった。なつみのぼんやりした微笑みを見ると、その姿が恐ろしい程ハッキリと見えた気がした。
「ねえ。慎也くん」
彼女はもうすっかり落ち着いていて、逆に変な焦燥感に駆られているのは俺の方だった。彼女の声のトーンに驚き、そしてすぐに嫌な予感がした。なつみの鋭い洞察眼は、俺の内面を既に見破っているようだった。
俺は唾を飲み込んだ。
「慎也くんって、私のことまだ好きなの?」
なつみはそう言った。俺は赤面した。一瞬で丸裸にされたような気分だった。
「い、いやそ、そ、そんなわけ……」
こういった場面で、うまく喋れた試しがない。
「10年間、ずっと?」
「……」
俺はとうとう、呼吸の仕方も忘れてしまったかもしれない。焦って息を吸おうとするが、酸素が取り入れられている気がしない。
心の中では、全神経が彼女の言葉を否定しようと必死に働いていた。だが、それはもう叶うことのないことで、彼女の言葉は数秒前の自分さえもが気づいてしまった完全なる事実に他ならなかった。
その気持ちが本当に自分のものなのかはわからない。だが少なくとも俺の10年間には、それを裏付ける言動が存在していた。
「……わかるよ。私のことすごい心配してくれてるんだなーって」
「……」
「でも、私たちはもう終わってるの、10年も前に」
「……」
俺はシャツの袖を目に当てていた。もう何も言わないでほしかった。それ以上の言葉は気休めにもなるはずが無かった。ただ俺に似つかわしくない汚点を無理矢理広げられているようだった。情けない姿を俯瞰してみれば、本当に涙が止まらなかった。
「泣かないでよ。子供じゃないんだから」
「……わ、わ、わがっでるよ……」
なつみは俺の背中をポンポンと軽く撫でた。この瞬間の俺は、きっと全世界で1番ダサいが、世界で1番尊い一瞬だった。来年で30になるいい大人だが、精神年齢はきっとあの頃から進んでいない。10年間、俺の体内時計は止まったままだったに違いない。
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