第18話 親権の行方

 その日の18時ごろ、携帯の通知音が鳴った。確認すると、それは咲ちゃんからだった。

【前田さんのご家族、やはり離婚されたそうです。今日、旦那さんが学校に連絡に来られました】

 俺は眉をひそめた。あの前田も離婚を避けられなかったか。それはそうか。離婚の理由を奥さんのなつみの不倫とでっち上げた奴が、不倫をしていた張本人だったのだから。しかも、橋本法律事務所を訴えることで、間接的にその事実を認めてしまっているようなものだ。そうまでして俺たちを訴える理由こそわからないが、きっとそれは橋本先生が言っていた「裏」というやつなのだろう。前田がリスクを負ってまで俺たちを社会的に追い込む理由は一体何なのだろう。

【実は1つ気になることがありまして】

 続いてメッセージが送られてくる。が、その内容に俺は驚きを隠せなかった。

【前田さんによると、お子さんは旦那さんの戸籍に入るようなんです。なつみさんが親権を預かると思っていたので、かなり驚きました】

 え?親権が前田に渡ったということか?俺は携帯を握りながら、ある種のパニックになりかけた。どんな事の運びでそうなるのだろうか。なつみはなぜそれを許容したのだ?頭は積み重なる疑問の山で埋もれてしまい、身動きが取れそうにもなかった。

「た、田所さん!前田家の親権、母親ではなく父親側に渡ったそうです!」

 田所さんの表情が固まった。

「え、どういう事?なんで?」

 俺も田所さんもきっと同じ思考を辿っている。今回の訴訟もこの件と深く繋がっているに違いない。いずれはこの謎も解いていかなければ、この事務所に未来はない。

「ちょっと出ます」

「うん、わかった。橋本先生には私から伝えておく」

「ありがとうございます」

 俺は鞄を持ち、なつみの家へ向かうため、急いで事務所を飛び出た。

【私は教師なので、児童の家庭に深く関わることはできません。あとは先生にお任せします。どうかよろしくお願いします】

 咲ちゃんからのメッセージがまた届いた。

【はい、そのつもりです】

 俺はそう返信した。今から直接なつみの家に行き、この件について本人にぶつけてみることにした。この前は、なつみに申し訳ないことをした。そんな恥ずかしく情けない過去が時々頭をよぎるが、今は遠慮なんかする場合ではないと思う。彼女が心配なのだ。彼女の身に何か危険が及びそうな、そんな漠然とした直感があった。

 ビルを出て、タクシーを止めた。

「あ、えーっと、あの、谷岡ヒルズまで」

 彼女の住んでいるマンションの名を、奇跡的に覚えていた。タクシーはすぐに走り出した。


………………………………………………………


「ただいまー」

 有村は買い物から帰ってくると、そう言った。

「ビール買ってきたよ。真知子ちゃん〜」

 有村は今、内田真知子を自分の家に住まわせている。内田はストーカーの被害に遭っていた。

「真知子ちゃ〜ん」

 彼女はもう一度、内田を呼んだ。だがその声は部屋の中で微かに反響するだけで、肝心の内田の返事がなかった。ストーカーの件もあって、有村は若干焦りを覚えた。

「真知子ちゃん?」

 もう一度、声をかける。だが残念ながら、同じ結果だ。

「嘘でしょ?」

 有村は家を開けていたのはたったの10分ほど。その間に内田は姿を消してしまっていた。

 彼女は家のクローゼットを片っ端から開けて、内田が隠れていないか見て回った。ベッドの中や下、カーテンの後ろ、隠れんぼでもしていなかったら人などいるはずがないのだが、微かな望みをかけて家中を探した。だがそれは時間の無駄だった。

「え、なんで?」

 部屋に争われた形跡もない、もちろん鍵もかかっていた。ということは、連れ去られたのではなく、内田が自らの意思で家を出たとしか考えようがない。ストーカーに付き纏われているのにも関わらず、一体内田は何を思って、一人で外に出たのか。有村はそのことに気がつくと、彼女もすぐに部屋を出た。まだそう遠くは行っていない筈だ。

 マンションの表の路地に出た。キョロキョロと見回せば、人の姿はあるが肝心の内田の姿がない。先程までに増して焦りが高ぶっていく。

「え、ど、どうしよ……」

 足がすくんだのか、有村はその場にしゃがみ込んでしまった。声にならない悲鳴が彼女の心の中で響き渡った。

 有村は携帯をポケットから取り出した。急いで内田に電話をかけた。

 プルルルル……。プルルルル……。

 内田は出なかった。有村は動揺を隠せない。何かあったりしたら、きっと自分のせいになる。責任感が強い彼女にとっては尚更、頭を抱える事件だった。


………………………………………………………


 気づけば、もう辺りは暗くなっていた。街頭の明かりがなんだか俺を急かしているかのように、あっという間に頭上を通り過ぎる。

 10分足らずで、俺はなつみのマンションに着いた。下からその背の高いマンションを見上げた。彼女の部屋の場所は知っている。彼女の部屋はカーテンがあって中の景色はよく見えないが、確実に電気はついている。なつみは今、家にいるはずだ。

 急いでマンションの正面玄関に行き、なつみの部屋番号を入力する。もう今の俺に一才の躊躇いはなかった。あの時のトラウマも、もうどうでもいいと思えるほどだ。

 部屋番号を入力し、呼び出しボタンを押す。2秒ほどコール音が鳴った後、俺の顔をカメラ越しに見たからか、すぐに切られてしまった。

「あ、くそ!」

 なつみが心配だ。あのなつみが、あんな旦那に親権を譲るわけがない。もう既に十分嫌われている筈だが、多少無理してでも彼女の安全を確認すべきだ。何かあってからでは遅い。それに、彼女は俺にとって大事な人だ。困っているところなんか見たくない。

 その時、中から人が出てきて、マンションの正面玄関の扉が開いた。マンションの住民だろうか。だがそんなことはどうでもいい。俺はその扉が閉まり切らないうちに、マンションの中に入ることができた。

 2回目であるから、エレベーターの位置に迷うことはなかった。小走りになりながらそこに急いで、ボタンを連打する。やがてエレベーターがのんびりと動き出した。

 エレベーターの扉が開いたら、すぐに廊下を駆け抜けた。彼女の部屋の前に着くや否や、瞬時にインターホンを鳴らした。

「お、おい!俺だ!池谷だ!」

 大声で叫んだ。我が人生の中でこれほど必死になったのは初めてかもしれない。だが、いくらなっても扉は開かない。インターホンにも出てくれない。

「なつみ、聞こえるか?」

 ドンドンと、ドアを拳で叩く。耳を澄ましてみても、返事が聞こえるわけではなかった。

「なつみ!なつみ!」

 俺の声が聞こえていないはずがない。インターホンだって何回も押した。それでも彼女は俺を無視し続けた。

 苦しい。とても苦しい。こんな時ですら彼女の役に立てないなんて、俺は何のために生きているんだろうか。俺は10年前からずっと、大して何も彼女にしてやれたことはない。この前の夜もそうだった。俺は未熟なまま、何も変わっちゃいなかった。

 少し冷静さを取り戻した俺は、これで最後にしようと心に決めた。彼女が俺を拒絶するなら、力になれないことは火を見るより明らかだ。

 ピンポーン。俺は最後のインターホンを鳴らした。

「なつみ、いるなら開けてくれないか?話がしたいんだ」

 中から物音がしたような気がした。わからない。勘違いかもしれない。

「こ、この前はごめん。あ、でもごめんで済むはずないことはわかってるんだけど、でも、ごめん」

 感情のままに、言葉を紡いでいく。始めに出た言葉は謝罪だった。

「実は、大石先生に色々聞いたんだ、お子さんのこと。もしかしたら何かあったのかなって。なつみが子供を手放すなんてあり得ないと思ってたから」

 そこまで言って、ドアをじーっと見つめた。やはり開く気配はない。もう諦めた方がいいのかもしれない。

「……」

 仕方なく帰ろうとしたその時、ドアの奥でまた何か音がした。今度は人の声のような気がした。

「なつみ?なつみ!」

 咄嗟にドアに駆け寄り、声をかけた。

「……しんや……」

 俺にははっきりと聞こえた。なつみが俺の名を呼んでいるのがはっきりと聞こえた。

「と、突然押しかけてごめん。話がしたい」

 数秒後、ガチャっと音がして、ドアがゆっくりと開いた。俺は小さくお邪魔します、と呟いてから中へ入れてもらった。

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