第17話 罠
休日明けの橋本事務所は、なんだかピリついた空気が流れている。その理由は誰に聞いても明らかだった。今朝、ウチ宛に届いた訴状だった。
「はい、どうぞ」
田所さんは俺にお茶を入れてくれた。だがそんな彼女の表情にも余裕はない。勢いよく机に置かれたお茶は、表面張力に負けて少し溢れた。俺はティッシュでそれを拭いた。
「……」
ふと顔を上げると、眉間に皺を寄せた橋本先生が訴状を見ている。もう10分以上そうしている。だが、その訴状が送られてくる原因を作った俺は何もできずただ時が流れるのを待つしかなかった。
おそらく、いやきっと、ここにいる誰もが想像もしていなかった筈だ。訴状が本当にうちに届くなんて。
事件の発端は前田さん夫婦離婚案件にまで遡る。俺が担当したその案件で、クライアントである旦那さんを裏切るような行動に出てしまったことが原因だ。浅はかな行動をしたのはこの俺だ。
確かに、あの時旦那さんはこの事務所を訴えると脅していた。だが、それはただの脅しに過ぎないとたかを括っていた。そんなことをすれば、傷を負うことになるにはこの事務所だけではない。訴えた旦那さん側も、自分の非を暴かれて逆上した奴だというレッテルが貼られることになる。そんなバカな事をするはずがない、心のどこかでそう思っていたのだろう。
訴状を受け取った橋本先生だったが、俺には一切その訴状を見せてくれなかった。どこかで俺のせいなんだ、という意識が強くあり、取るべき責任は取りたいと思う。だが、橋本先生はそれを許さなかった。これは池谷ではなく事務所の問題だと、繰り返しそう言った。
「これらの案件、お前に任せる」
「え?」
橋本先生は、分厚いファイルをいくつか俺の机に並べた。
「俺はこの件をどうにかする。あとは任せた」
そう言うと、橋本先生は鞄を手に取って何やら出かける準備を始めた。
「い、いや、待ってください!こんな量1人じゃ無理です!」
「大丈夫だ。俺はいつもそれを1人でやってる」
俺は橋本先生みたいに優秀じゃないだ!、と言いたかったがやめた。そんなことを言ったって状況は変わらない。今の俺の仕事はこれらを処理していくことだ。
「じゃ、行ってくる」
橋本先生は事務所を出て行った。慌てている彼の様子は初めて見たかもしれない。
俺は橋本先生から預かったファイルを丁寧に開けた。いつもなら泣いて喜ぶような骨のある案件ばかりだ。中には長年、橋本先生が大事にしてきた案件もあった。こんなに仕事を任せてもらえたら、やっと認めてもらえたと言って、普段の俺はきっと喜んだであろう。だがそうでないことがハッキリしている今、渋々任されたこれらの重要案件には物凄く申し訳なかった。何事もなく済ませられるような気は全くしないし、きっとまた面倒なことになるかもしれない。そう思えば、悪いことが連鎖していって止まれない感じがした。
「先生、しっかりやりましょ。私も手伝いますから」
「は、は、はい」
ありがたい、が何か違う。やりずらい感覚を持っているのは俺だけじゃなく、田所さんも同じはずなのだ。両肩にかかる重圧が、俺を一層苦しめている。仕事だけが充実していた毎日だったが、そんなことももうないのだろう。
「先生、そういえばストーカーの件もありましたよね?」
「は、はい。内田さんの件ですね。今は有村さんの家に住まわせてもらっていて、昨日も聞いたんですが最近は大丈夫だそうです」
「そう。よかった」
とは言いつつも、人の命に関わることだ。すぐ何か手を打たねばならない。だが目の前に積まれたファイルを見ると、まるで何から手をつけていいか、さっぱりわからない。
「とりあえず、毎日メールでも送ってみたらどうですか?」
「仰る通りです。そうします」
内田さんのメールアドレスを探したが、交換していなかったことに今更気づいた。仕方なく有村さんのLINEに内田さんはどう?、とメッセージを入れた。返事はすぐに返ってきて、それは面白い顔をした動物が親指を立てているスタンプだった。とりあえず無事なことはすぐにわかった。
「では、続いてこちらです」
続いて渡されたファイルは、安田電機株式会社、とだけ書いてあった。おそらく橋本先生はこの会社の顧問弁護士を務めていて、これからは俺が代理で入ることになるのだろう。
プルルルルルル……。その時、突然事務所の電話が鳴った。田所さんは受話器を手に取って、耳に当てた。
「はい、橋本法律事務所の田所です。……はい、……はい。いえ、でも先生は……、はい。申し訳ございません」
俺はファイルの中身を見ながらも、田所さんの電話の声に耳を澄ませていた。あまり芳しくない様子はすぐにわかった。
田所さんは受話器を元に戻した。表情はやはり暗い。
「どなたからですか?」
「安田電機さんからです。今回の騒動で、顧問弁護士は違うところに頼むそうです」
「え?本当ですか?」
俺は手に持ったファイルにチラッと目を移した。もうこの分厚いファイルに用はない。今俺の仕事が一つ、減ってしまった。だがそれも俺のせいで、迂闊に悔しそうな反応をとることさえも躊躇われた。
「ごめんなさい。僕のせいです。すいません」
田所さんは静かに首を横に振った。
プルルルルルル……。まただった。また電話が鳴った。今度も田所さんが電話に出た。
「はい……。すいません……、はい、いえ……。申し訳ございませんでした」
彼女が話している間にも、さらに次の子機が鳴り出した。不穏な空気を考じる暇さえなく、俺も受話器を取った。
「はい、橋本法律事務所の池谷です」
《もしもし、株式会社ステフの岡崎と申します》
「あ、どうも。お世話になっております」
受話器を首に挟む。急いで株式会社ステフと書かれたファイルを探し出して、ペラペラと中の資料に目を通す。確かに、岡崎という名前があった。
《橋本先生はいらっしゃいますか?》
「申し訳ございません。ただいま橋本は外出中でして」
《あ、そうですか。ではご伝言お願いできますか?》
「ええ、も、もちろんです」
《我が社と致しましては、今回の橋本法律事務所に関する報道を重く受け止め、顧問弁護士契約を打ち切らせていただきます。そうお伝えください》
「は、は、はい……。誠に申し訳ございませんでした」
《では》
ガチャ。電話はすぐに切られた。ほぼ同じタイミングで、田所さんも電話を終えていた。
「なんでこんなに広まってるの?……」
俺も全く同じことを考えていた。最初から仕組まれていたかのように、電話が鳴り止まない。俺は急いでパソコンの電源を入れ、ニュースを見た。
「た、田所さん!これ!」
この事務所が訴えられたという記事は、ネットニュースのトップになっていた。その内容は事実とはかけ離れている部分が多く、まるで悪者のような扱いだった。その恨み辛みの内容からして、これをメディアに流したのは前田さんの旦那さんで間違いない。
「な、何これ……」
そう言っている間に、また電話が鳴り出した。田所さんはまたすぐに受話器を取った。
とても現実とは思えない。橋本先生から預かった案件が、みるみるうちに紙屑へと変わっていく。電話だけではない。橋本先生のパソコンには、契約破棄を知らせるメールが山ほど届いていた。通知音も鳴り止む気配がない。
その時、俺の携帯電話が鳴り出した。パッと手に取ると、橋本先生からであった。
「はい、もしもし池谷です」
《えらいことになったな》
「ほ、本当にごめんなさい!!全部俺のせいです!」
《おい、もう随分前にそれは聞いた。もういい》
「そんな……。お、俺、本当に……」
《そう焦るな。そんな簡単にウチは潰れねえ》
「……」
《だが一つ、言っておきたいことがある》
「は、はい」
《今回のこの騒動、絶対何か裏がある。弁護士の勘がそう言ってる》
「う、裏ですか……?」
《今のところは何も根拠がない。でも何もかも裏目に出る。意図的な力が加わっているとしか思いようがない》
「は、はい」
《お前、責任取るとか言って絶対ここ辞めんなよ。辞めていいのは、俺のクライアントを全員取り戻してからだ。それまでは池谷にできることをしろ。幸い、お前には友人から預かった案件がまだあるはずだ。しっかりこなせ》
「はい」
《俺たちを貶める奴は、俺が絶対に暴いてやる。どうせあの前田とかいう男だろう?あいつの裏の顔を絶対に暴いて、見せしめにしてくれるわ!》
橋本先生はそう言うと、俺の返事を待たずに電話を切った。焦っているようだが、その言葉は心強く、俺を勇気づけるものだった。やるしかない。この苦境を乗り越えるには、俺もやるしかない。きっと仕事がなくなっていくらか暇にはなるだろうが、しっかりと敵を見据えた俺たちにできないことはないようにも思えた。
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