第16話 コーヒーと服
頭上の空をJALの飛行機が飛ぶ。俺はその瞬間をカメラに収めた。周囲に鳴り響くエンジンの音こそ目に見える形で保存できないが、その躍動感や迫力のある写真には俺も目を丸めるしかない。
だが、何かが違った。写真自体は上手く撮れている。だが今日は全力で楽しめていない。俺は何も考えず、その写真を削除した。今日は結局、一枚も撮れていない。
いつもはこうしているだけで楽しい。空港の近くまで来て、飛行機が飛んでいるのを見て、写真を撮る。上手く撮れたものは現像して部屋に飾る。特に友人も恋人もいない人生なら、それぐらいで十分に気は紛れた。実際30年近くそうやって生きてきたし、起伏がない人生をそれなりに頑張って歩いてきた。
でも今の俺は少し違う。ほんの少しだ。ほんの少し、人並みでありたいと思うようになった。別にその変化に深い意味や隠された過去があるわけではない。ただ少しだけ、一人でいる時間が長く感じるようになってしまった。
その原因はもう薄々わかっている。人と接する楽しさを知ってしまったからだ。また、それを求めてしまったからだ。有村さんや咲ちゃんと出会って酒を飲み交わしたあの日に、俺はある意味生まれ変わっていた。
俺は首から下げているその少し高いカメラを見た。今さらそれを天に向ける勇気は、もうどこにもなかった。俺に無視されてしまった、空港を離陸したばかりの旅客機は、心臓に悪いエンジン音を響かせながら頭上を通り過ぎて行った。
腕時計を見た。あれからまだ2時間しか経っていない。きっと女性陣はまだ時間はかかるだろうが、俺はもう十分だ。趣味に没頭できるほど俺は切り替えが上手くできるタイプではない。
きっともうリセットするなら今しかない。あの頃の平凡な、飛行機を撮って集めるだけで幸せな日々を取り戻すためには、きっと今しかないのだろう。
「……」
落ち着きたいと思った。今まで全く悩むことがなかった人生だから、もう頭の中は一杯一杯なのだ。人間としてあまりにも弱い。そんなことは百も承知だ。
適当に辺りを見渡し、俺は近くの草っ原に腰を下ろした。座ったところの土が若干濡れていて、お尻の部分が濡れた。
「あ……」
せっかく下ろした重い腰をもう一度起こして、ズボンについた泥を払った。
「はぁ」
ため息が出るのも仕方がない。まさにこの瞬間は、何をしようにも上手くいかない、そんな俺の人生の縮図のようだった。嘲笑が胸の奥から込み上げてくる。
ドドドドドドドド…………。
そんなこんなをしているうちに、また飛行機が頭上を通過した。地響きにも近い轟音が、俺の気分をさらに不快にさせる。俺はその飛行機を暫く目で追って、大空に旅立っていく様を暫し見守った。
「はぁ……」
意味もないため息が溢れる。しかしその時、俺の肘に温かい何かが触れた。
「コーヒー、いります?」
ハッとして振り返ると、そこにいたのは有村さんだった。買い物袋を片手に2、3個抱え、もう片方の手に缶コーヒーを2本持っている。
俺は唖然とした。彼女が近くに来ていることに全く気が付かなかった。もしかしたら、俺がこの辺りをブツブツ言いながら徘徊しているのを見られていたかもしれない。
「どうぞ」
「え、あ、ありがとうございます」
俺はありがたく缶コーヒーを頂いた。缶はまだ熱すぎて、蓋を開けるのに少し苦戦した。
「咲ちゃんと内田さんは?」
「まだお買い物中です。まだ暫くかかりそうです。すいません」
「いえいえ、全然」
そんなことを言いつつ、缶コーヒーをグビっと喉に流し込む。冷え切った体に温かい飲み物が染み渡る。
「あ、有村さんはなぜここに?」
「慎也くん、ずっと1人だったら寂しいかな、と思いまして」
彼女はハキハキとそう喋った。俺はその言葉に、どこか複雑な気持ちを抱かされた。俺はその場で俯いて、軽く深呼吸をした。思い詰めていたさっきの自分が何故か馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「いや、で、でも俺1人でいるの結構慣れてるんで」
俺はまたコーヒーを飲んだ。コクのある苦味が口内で広がり、香ばしい風味が鼻を通っていく。身の程に合わない強がりは自分の首を絞めるのはわかっていても、俺の口は勝手に動いた。
しかし俺の混乱した感情とは裏腹に、彼女は頬を緩め、俺の方を見て少し微笑んだ。
「嘘ですよね?さっき寂しそうにしてたじゃないですか」
「あ、え、いや……。見られてましたか……」
とても恥ずかしい。いやそれどころか、せめて人前では俺は1人が好きな人間でいたかった。寂しさなんて感じないような強い人間であると思われたかった。きっと気付かぬうちにそんな意識が芽生えていたのだろう。
「何というか、少し後ろ姿が可愛かったです」
「え?」
「いえ、やっぱり今のは聞かなかったことに」
そう言って有村さんは恥ずかしそうに笑った。だが、意味ありげなその言葉を手放せるほどの度胸も経験も俺にはない。ありがたく心の棚にしまわせてもらった。
「でも、少なくとも慎也くんらしくなかったですよ。さっきの姿は」
「え?」
「慎也くんは、1人が好きなように見えて実はそうでもないんです。強いようで実は弱いんです」
有村さんは笑顔でそう言う。自分でもぼんやりしていた、俺の核心をついたようだった。胸の中までもを見透かされている気がする。
「ちょっと馬鹿にしてます?」
「いいえ、まさか!」
冗談で聞いたことに彼女は慌てて答えた。彼女に悪気がないことは俺が1番わかっていたし、何よりその優しさにホッとした。手を繋いでいてくれている時のような、何もかも包み込む魅力に俺は引きずり込まれていた。
「何かお悩みですか?私で良ければ話ぐらい聞きますよ」
「いえ、大丈夫です。今しがた解決したようです」
その時の言葉に偽りはない。2時間近く悩んでいたこくだらない自己嫌悪は、彼女と少し喋っただけで嘘のように晴れた。丸まった嘘が溶けていくの感覚を俺は確かに感じた。奇妙な瞬間だったが、俺は確実に成長していた。昨日の自分より人間らしくなった気がする。
「あ、これ。慎也くんにプレゼント」
そう言って、彼女は持っていた紙袋を俺に渡した。俺は驚きながらもそれを受け取った。
「3人で慎也くんに合うのを選んだんです。よかったらどうぞ」
「え、あ、本当ですか?あ、ありがとうございます」
心の底から嬉しかった。この紙袋に入った服が、何か俺の大事なものを象徴している気がした。中身を見るまでもなく、その服は俺の中の特別になりつつある。そして実際、取り出してみたその服は俺の好みだった。
「どう?」
「めちゃくちゃいいです。ありがとうございます」
「いえいえ」
そう言って有村さんは笑った。俺はそんな彼女に心から感謝を伝えた。
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