第11話 もう一人の被害者

 有村結衣はいつも通り仕事をしていた。しかし今日は窓口にやってくる人の数が少なく、ペンをカチカチしながら時間を潰していた。派遣会社で働いているとこういう日も決して少なくはない。

 有村は大きく伸びをした。両手を大きく上げて、背中の筋を伸ばす。

「ふー」

 手を下ろした時に、たまたま横を通りかかった内田真知子に図らずも当たってしまった。

「あ、ごめん」

「いえ、全然……」

 有村は内田に覇気がないことに気がついた。いつもはもっと騒がしいほどに明るい性格の持ち主だったが、今日は違った。明らかに口数が少なく、落ち込んでいるように見えた。

「真知子ちゃん、なんかあった?」

 有村は何気なく聞いたつもりだったが、内田は大いに動揺した様子だった。これはどう考えても只事ではなさそうだった。

「私で良かったら、話聞くよ」

 少し辺りを見回した。お客さんが来る気配もないし、少しぐらいなら大丈夫だろう。有村はお客さんの席に内田を座れせた。

「有村さん、実は私……」

 かなり言いにくそうな感じだ。有村に話すのを少し躊躇っている様子だったが、有村は急かすことなどせず、内田が自分から口を開くのを待った。

「ス、ストーカーに付き纏われてて……」

「え?ストーカー?」

 有村は驚きを隠せなかった。同時にその男に対する嫌悪感を抱いた。可愛い後輩をこれほどまでに追い込む男を許せるはずがなかった。

「知ってる男なの?元カレとか?」

 内田は首を横に振った。かすかに手が震えているのがわかる。

「違うんです有村さん。男じゃないんです」

「え!?」

「女性なんです、私に付き纏っているの」

 有村は言葉を失ってしまった。有村はストーカーといえば気色の悪い男だと決めつけていた。予想を遥かに上回る事実だった。

「女性……?」

 しかし冷静になって考えてみれば、今は昔と違ってジェンダーの理解が進んでいる。その可能性だって十分に考えられるわけだ。そう解釈すれば何もおかしくはない。

「警察には言ったの?」

「もちろんです。でも全然相手にしてくれなくて」

 難しい問題なのは紛れもない事実だ。警察が動かないようなことに首を突っ込んでも、良い方向に事が進むとは考えにくい。

「最近は家にまでついてくるんです。もう怖くって……」

 有村自身はストーカーの被害に遭った経験はない。だが付き纏われることの恐怖感なら十分にわかる。それが男であろうと女であろうと、ストーカーであることに変わりはない。

「わかった。知り合いの弁護士さんに聞いてみる」

 有村はその言葉を口にしてから気がついた。有村の性格上、困っている人を放ってはおけないのだが、結局あの先生に頼りっきりになっている気がした。まあでも、それで解決するならそれに越したことはない。

「弁護士、ですか?弁護士ってなんか、よくわかんないんですよね……」

「うん、私も最初はそうだった。でも大丈夫、めちゃくちゃいい先生だから。信じて」

 有村は内田の肩に手を置いた。あまり仕事ができるような人ではなさそうだが、きっと親身になって話を聞いてくれる。不器用だが何かしらのことはしてくれるだろう。その保証はできる。

「連絡してみるわ。一緒に行きましょ」

「はい、ありがとうございます」

 内田は礼を言って、自分の席に戻った。少しお節介が過ぎたかもしれないが、まあ良いと有村はため息をついた。彼女は池谷に今回の件について、メールを送った。


………………………………………………………


 2回目になると、地図がなくても小学校に行けるぐらいになっていた。前来た時よりも5分ほど早く着いてしまった。約束の時間まではまだある。

「まあいっか」

 外で待つのには寒すぎる。俺は少し躊躇したが、結局すぐにインターホンを鳴らした。名を告げると、今迎えに来てくれると返事が返ってきた。

 2分ほど待つと、校舎の前に若い男の先生が姿を表した。早足でこっちに向かってくる。

「ど、どうも。橋本法律事務所の池谷です」

「お待たせしました。大石先生から話は伺いました。1年2組の担任をしております、河本と申します」

「お、大石先生から?」

「ええ。こちらを池谷先生に渡して欲しいと」

 河本先生が俺に手渡したのは、俺が咲ちゃんにデータで送った告発書だった。しかもそれが2枚あった。

「私も書かせていただきました、告発書。よろしくお願いします」

「あ、なるほど。河本先生も長居先生にパワハラを?」

 そういえば、咲ちゃんがもう1人告発書を書きたいと言っている人がいるということを思い出した。そしてそれが河本先生なのだろう。

「ええ、まあ。目を通していただけますか?」

「も、もちろんです」

 校門の前だったが。一応今のうちに確認はしておかなくてはいけない。風が強かったため、左手で押さえながら急いで文章を読んだ。だが、その内容はすぐに飲み込めるものではなかった。

「な、なるほど」

「……」

「これは相当酷いですね。人としてどうかしてますね……」

 そこには長居先生の非人道的な性差別発言が並べられていた。驚くべき内容だった。差別主義者も良いところだ。

 彼の告発書によれば、河本聡先生は同性愛者の方だそうだ。それを赴任当初、上司である長居先生にだけ告白した。しかしいつの間にかそれは学校全体に知れ渡っていて、挙げ句の果てに生徒さんの前でイジられることもあったそうだ。これも立派なセクハラだ。またパワハラに当たるような乱暴な言葉遣いも山のようにあった。

「これは相当悪質です。ですが大石先生は今のところ訴えるつもりはないようです。河本先生だけでも法的手段に移る手もありますが、どうなさいますか?」

「大丈夫です。大石先生がそう仰るなら」

 河本先生は俺の提案を断った。俺は頷いて、それ以上何も言わなかった。彼の意思は、咲ちゃんと歩調を合わせることだった。

「では、行きましょう」

「はい、ご案内します」

 やっとのことで俺は校内に立ち入った。ただ、俺の心の中に、今までにはない何かが芽生えた。弁護士としての正義を通り越し、人間としての次元に近い。やるべきことは全ての不当な差別を終わらせることだ。しかもそれが教育現場で起きているなんて、万が一にもあってはならない。どんな理由があっても許されるはずがない。

 きっと俺はいつもよりカッコよく見えていただろう。それだけ俺は一つの信念を胸に、一歩一歩歩いていた。

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