第10話 心機一転
「本当に申し訳ありませんでした!」
「……」
いつもより30分ほど早く出勤した。昨日あったことを全て橋本先生に言った。その後、一連の誤った行動を詫び、俺は精一杯頭を下げた。正面から橋本先生の目線を感じる。彼の威圧的な雰囲気と共に、何もできない俺に良くしてくれた彼の優しさが頭を行き来する。
少し目を開いた。薄汚れたフローリングを見ている。そうしている時間は思った以上に長く感じた。
「顔を上げろ」
「は、はい」
俺はゆっくりと顔を上げた。腕を組んでいる橋本先生がいた。眉間には皺を寄せているが、それはいつものことだ。
「謝る時間なんてない。ほら、さっさと仕事しろ」
「は、はい。ありがとうございます」
橋本先生は俺の肩を持ち、俺のデスクのところまでズカズカと押していってくれた。俺をやや強引に座らせ、呆れながら薄っすら笑みを浮かべた。
「パワハラの案件取ってきたそうじゃないか」
「はい」
「じゃあそれしっかりやれ。前田さんの件は俺がどうにかする。まあ、ただの脅しだって可能性も高い」
頼もしいの一言に尽きる。俺の引き起こした問題を自分で解決できないことに未練はあるが、自分がそんなことができる器でないことは明らかな事実なのだ。ここは橋本先生の言う通り、今目の前にある案件にしっかりと向き合うことが大事だ。
離婚の案件以外を担当させてもらうのは数年ぶりになる。問題を起こしたはずなのに、少しばかりか自分を信用してくれた橋本先生には感謝しても仕切れない。
「はい、お茶です」
「ど、どうも。あ、あの、昨日はすいませんでした」
「大丈夫、大丈夫。若い頃の橋本先生だったら池谷先生と同じことしてたはずだから」
「え?」
「今は全然違うけど、昔は情に熱い弁護士だったの。意外でしょ?」
「そ、そうですね」
田所さんは優しく微笑んで、歩き去っていった。元夫婦とだけあって、昔のことも結構知っているようだ。古い仲なのだろう。橋本先生がそんなタイプの弁護士だなんて、今の彼からは全く想像もできない。
とりあえず、俺は机の上の整理を始めた。無数の書類がガサツに置かれたままだ。俺は一枚一枚確認して、丁寧に片付けた。
「池谷、パワハラの件、どんな案件か教えてくれ」
橋本先生は向かいのデスクから覗き込むように俺の方を見た。
「は、はい。原告は大石咲、小学校の先生です。上司の長居良和のパワハラとセクハラを訴えています。本人の希望もあり、まずは厳重注意を呼びかけて、それでも駄目な場合は法的手段に出ようかと」
教師間でのパワハラ問題は以前にも問題になったことがあった。特に公立学校では思い通り転勤ができない上に、児童生徒への影響を鑑みて学年が終わる3月までは異動しにくい。また、してはいけないという空気になりがちだ。そのため、ある程度の無理強いを強いられることも多々あるのかもしれない。これはあくまで俺の推測に過ぎないが、苦しくても逃げ出せない教師の方はきっと大勢いる。
「わかった。慎重にな」
「はい、わかりました」
アポを取ればすぐに行動に出れるかもしれない。前にも一度行ったことがあったため、薪葉小学校の電話番号は控えてあった。俺は事務所の電話にその番号を丁寧に打ち込んだ。2コールで誰かが電話に出た。
《はい、薪葉小学校でございます》
「えっと、橋本法律事務所の池谷です」
《あ、池谷先生ですか!先日はお世話になりました》
声だけでは誰かはわからないが、きっと俺を知っている人なのだろう。
「は、はい、こちらこそどうも。あの、今日は校長先生と長居先生にお話がありまして」
《また前田さんの件ですか?》
「いえ、今回は別件です。お会いできる時間ってありますか?」
《今日中ですか?》
「なるべく早いほうがいいですね」
《あー、えっと、少々お待ちください》
校長先生を出せという俺のわがままのせいで、電話の奥の人はかなり気が進まない様子だった。だがこの件に関しては校長先生にも直接お話を聞いてもらう必要があると判断した。
《お待たせしました。本日の18時でどうですか?》
「わかりました。ではその時間に伺います」
《はい、お待ちしております》
「ありがとうございます。では失礼します」
俺は受話器を置いた。いつもとは違った緊張感を持ったのは、きっと俺に責任感が芽生えたからだろう。俺はメモ帳に時間を記入し、そのままカバンにしまった。
長居先生は相当癖のある人に違いない。前田さんの旦那さんの味方をしたりする時点で、もう信用はゼロに近い。俺が何を言おうと、そんな事実はありませんの一点張りになり可能性だって十分ある。俺は携帯を取りだし、lineを起動し、咲ちゃんのアカウントを探した。昨日、交換したばっかりだ。
【昨日はありがとうございました。楽しかったです。急な話なんですが、今日の18時に薪葉小学校に行って長居先生に話をする予定です。そこでお願いなんですが、咲ちゃんにはそれまでに告発書を書いて欲しいです。テンプレートは送信するので、そのまま上書きしてコピーしておいてください。印鑑も忘れずに!よろしくお願いします!】
忘れずにワードのファイルを添付して送信した。
告発書が有れば長居先生も言い逃れはできない。紙一枚があるかどうかで大違いだ。きっと校長先生が看過しないだろう。
返事はすぐに帰ってきた。
【わかりました!私以外にもう1人、セクハラにあっている人がいるんです。その先生も書いてもらってもいいですか?】
【もちろんです。多いに越したことはありません。ちなみにどんな方ですか?】
それっきり、彼女から連絡が途絶えてしまった。掛け時計を見ると、8時を指している。小学校なら朝会か何かがある時間なのだろう。そういえば先生という職業は、授業時間はもちろん休憩時間もお昼の時間も児童生徒と居なければならない。相手が小学生という活発な世代なら尚更だ。想像以上に過酷な労働を強いられているに違いない。なんて、わかった気になったつもりの俺だった。
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