第7話 忙しない夜

 俺の行きつけの定食屋「てんや」の近くに聳え立つ中々立派なマンションがなつみの家だった。俺は怯えながらもピンポーン、と呼び出しベルを鳴らした。数秒後、なつみが正面玄関を開けてくれた。

 恐る恐るマンションに足を踏み入れると、そこは広いロビーになっていた。床はツヤツヤな大理石で高級感が漂う。ガタイの良さげな管理人が2人いて、薄暗い照明がよく似合う。

 エレベーターを探すのにも一苦労した。ようやく見つけたそれに乗り込んで、15階まで上がる。ボタンは30まである。もう立派な高層マンションだ。すごい。

 部屋番号は1512。エレベーターホールを右に抜けて、開放的な廊下を辿っていくと、前田と書かれた表札を発見した。何の躊躇いもなくインターホンを押した。

「今晩は。いらっしゃい」

「こ、こんばんは」

 部屋着姿のなつみがすぐにドアを開けてくれた。俺は彼女の姿に緊張を隠せなかったが、その場で立ち止まっているわけにはいかなかった。

 彼女の部屋は、一言でいうとまとまっている印象があった。家具も少なくシンプルな部屋の構成になっている。間違っても女の子の部屋には見えない。

「ここって……、誰の部屋?」

「今は私の家よ。一ヶ月前までは旦那も住んでたけど」

「あ、そうなんだ。ご、ごめん」

「何に対してのごめん?」

「いや、な、なんでも」

「ここ座って。お茶でいい?」

「うん。ありがとう」

 フカフカで真っ白なソファーに腰を下ろした。変な話だが、少しいい匂いがする。

 部屋を見回していると、おもちゃ箱のようなものを見つけた。トミカとプラレールがそこから顔を出している。

「あれ、お子さんは?」

 キッチンにいるなつみに向かって、大きめの声で尋ねた。確か2人いるはずだ。

「あー。実家に預けてきちゃった。離婚で揉めてるとことか見せれないし」

「なるほどね」

「慎也はまだ飛行機の模型とか集めてるの?」

 彼女は俺が唯一自分らしくなれる時間を知っている。それは俺が飛行機を見ている時だ。物心がついた頃からずっと夢中になって空を見ていた。あの痺れるような感動は今もなお俺のモノクロな日常に少しの深みを与えてくれる存在なのだ。

「うん。部屋はもうそればっか」

 彼女はマグカップを2つ、ソファーの前のローテーブルに並べた。そして何も気にせず俺の隣に座った。

「ふーん」

 なつみは俺が飛行機の話をしようとするたび、興味がなさそうな顔をした。今もそうだ。俺の大事な趣味を軽く扱われるのが若かりし頃の俺は気に入らなかった。今はもう随分と大人になったが、飛行機という存在の大きさはずっと変わらないままだ。

「この部屋、さっぱりしてるでしょ?」

 確かに彼女の言う通り、物の数が異常に少ない。

「う、うん」

「全部捨てたの。旦那が集めてた変な写真」

 俺は怖くなって彼女を見た。彼女の顔には表情らしき物がが見当たらなかった。俺はハッとなって何もなかったかのように正面を向いた。

「知ってたの?旦那さんの不倫」

「なんとなくね……。まさか私が不倫してるっていう流れにされるとは思ってなかったけど」

「まあ、そうだよね。なんか奇妙」

「あー、疲れた」

 突然、なつみは俺に寄りかかった。近い。肩と肩が触れ合っている。俺はキョロキョロ目を泳がせながら、分かりやすく動揺している。指をさして笑われるレベルでほど情けない男だが、俺はそうやって生きてきた。今さら恥ずかしいとは思えない。

「え?そういうつもりじゃないんだ」

 なつみは俺にさらに近づいた。今にも俺の鼓動が彼女にも聞こえてしまいそうだ。俺は彼女の真っ直ぐでつぶらな眼差しを受け止めきれなかった。

「……しないの?」

 突然の一言だった。その言葉は俺の頭の中でこだまする。

「ば、ばかか。離婚はまだ成立してない。立派な不倫だ。子供もいるんだろ?」

 彼女の左手の薬指には、まだ結婚指輪が輝いている。俺はそれを見逃しはしなかった。俺の視線に気がついたなつみはそれを取り外して、マグカップの横に置いた。

「これでいい?」

 なつみは勢いよく俺に飛び込んできた。俺は踏ん張りきれずソファーに押し倒されてしまった。恐る恐る目を開くと、彼女の顔は俺の目の前にあった。

「な、なつみ……」

 俺は彼女の頬にゆっくり手を当てた。生ぬるい体温が俺の手に染みていく。徐々に高ぶっていく感情と裏腹に、恐ろしい劣等感に苛まれた。それは見る見るうちに俺の男としての自信やプライドを蝕んでいく。

 なつみは俺に跨った。パチクリと綺麗な瞳を俺に向け、当時の記憶と全く同じ状況が今まさに作られた。10年前と何ひとつ変わらなかった。

「ご、ごめん!俺やっぱ駄目だ」

 俺はソファーから転げ落ちるようにその場から離れた。ハッと気付いて彼女を振り返った時には、もうすでに遅かった。彼女は手の甲を目に当て、声を殺しながら啜り泣いていた。

「な、なつみ……。ごご、ごめん。でも俺無理だよ。今のなつみとなんて」

「10年前もそう言って断られた。じゃあいつ?いつならいいの?」

 俺は下唇を強く噛み締めた。意気地なしで覚悟が決まらない俺に彼女に返す言葉など見つかるはずがなかった。俺はその場をやり過ごすための苦笑を浮かべる他なかった。

「もう帰って」

 なつみの目には涙が浮かんでいた。もうこの状況を俺にはどうすることも出来なかった。あたふたして口をポカンと開けたまま、目を泳がせているだけだった。

「帰って!!」

「う、うん……」

 彼女の声は部屋中に響き渡った。鼓膜を直接指で突かれたような衝撃を食らった。隣戸に響いていても何もおかしくないだろう。

 なつみの気持ちを推し量ることが少しでも出来たら、きっと結果は変わっていただろう。もしくは俺がもう少し彼女に正直になれたら、俺は変われていたに違いない。

 俺はいつも逃げられる側だった。1人が嫌いじゃないし、そもそも喋り方も一般人からしたら変だと思われがちである。だからこの劣等品はいつも避けられていた。

 それ故に突然求められると、急に怖くなる。欠点しか見つからない不良品の俺の何が良くて、何が魅力的なんだろうか。ただでさえ壊れかけだった自尊心は、もうそこには存在しない。結局、今回も俺は逃げるという判断をしてしまった。極めて浅はかだ。

「お、お、おじゃましました……」

 ドアは冷たく重たかった。それを閉めるとバタンと大きな音がした。その後、俺は不気味な静寂に包まれた。1人虚無に放り出された。

 その時突然、ポケットの中の携帯電話が鳴った。橋本先生からだ。一息ついた俺は電話をとった。

「はい、池谷です」

《おいお前。前田さんの件どうした》

「あぁ、えっと、それは……」

 橋本先生の言葉の節々に尋常じゃない覇気を感じる。俺はこの時点で覚悟を決めなければならないようだ。

《事前に言ったよな?弁護士の仕事は依頼人の利益を最優先することだ。そいつがクソでも殺人鬼でもだ》

「はい、すいません……」

《旦那さんがうちの事務所を訴えると脅しのメールが届いた》

「え!?」

 俺は言葉に詰まった。個人事務所であるうちの事務所がそんなことをされたら、クライアントなんてパッタリいなくなってしまう。

《早く事務所に戻ってこい。今お前のマンションの前にいる。降りてこい》

「す、すいません。今家じゃなくて……」

《どこだ?どこにいる?》

 手汗が止まらない。なつみの家にいると正直に言うことも、上手く嘘をつくことも俺にはできそうになかった。

《おい、聞いてるのか》

「は、はあ、はい。今は……」

《どこだ?》

 俺はその場にしゃがみ込んだ。俺は嘘をつけるほど、社会の闇にまだ染まり切ってはいない、いや、染まれなかった。

「ま、前田さんの奥様の家です……」

 体の震えが止まらない。2秒前の判断に、もう後悔が付き纏った。未熟で馬鹿な選択を心の底から悔しがった。

《……。もういい。二度と来るな》

 ガチャ。携帯から電話を切る音が聞こえた。嘘をつくことに罪悪感を感じてしまう自分に猛烈に腹が立った。何知らぬ顔で平然と嘘をつくのにもそれなりの度胸が必要で、そんなものが俺の中に存在するわけがない。

 携帯をポケットにしまい、壁を使って体を持ち上げた。体は自分の体ではないくらい重い。きっと熱でもあるんだろう。

 俺は廊下の錆びついた手すりに体重を預け、意味もなく外の風景に目をやった。何も語らない星たちは珍しく都会の空に顔を出して、俺の無様な姿を嘲笑している気がする。もし許されるなら俺も自分を笑い飛ばしたかった。

「……」

 夜街の風景は俺とは対照的にいつも煌びやかだ。どんな夜も明るく賑やかで、どこも大勢の人で溢れかえっている。俺みたいなクズでコミュ症で人に好かれないタイプの人間とはまるで違う。だから俺はこの明るすぎる景色が全然好きじゃない。普段は別に羨ましくも何ともないが、こんな夜は少し嫉妬してしまう。仕方のないことだ。

 しばらくそこにいた。だけどそこで得られるものは当然なかった。呆れた俺はトボトボと家に向かって歩き出した。いつもよりも歩き続ける一歩は遥かに小さかった。

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