第6話 元カノ

「あ、ありがとうございます」

 お茶を持ってきてくれた田所さんに礼を言いつつ、奥さんにお茶を勧めた。ご主人は約束の時間になっても来なかった。俺は腕時計を確認した。もう17時を過ぎて30分以上だ。いくら待っても来る気配はないし、連絡も取れなかった。

「まさか慎也が本当に弁護士やってるなんて。びっくりだわ」

「ちょ、ちょっと。田所さんには内緒だからね」

 苗字が前田であったから、書面では全く気が付かなかった。だが前田さんの奥さんの名前は旧姓で田沢なつみ、俺の元カノ(唯一の)だった。大学時代に付き合っていて、浮気をされて別れたという暗い過去がある。

 彼女が事務所に来た時、腰が抜けるほど驚いた。そしてその驚きは今も収まるはずがなかった。

「元気にしてる?」

「う、う、うん。そ、そっちは?」

「元気に見える?離婚するのよ?」

「自業自得。なつみの不倫が原因なんだから」

 なつみは呆れたようにため息をついた。わかりやすく不機嫌そうな雰囲気を醸し出した。俺は彼女のこの空気がすごい苦手だ。

「本気で言ってる?それでも弁護士?」

「俺と別れた時も、原因はなつみの浮気だったし」

「ホント最低。変わったね、慎也」

 言葉の棘がグサグサと胸に刺さった。ダメージは思っていたよりも大きく、かなり落ち込んだ。誰も疑いたくてなつみを疑っているわけではない。それは少しでも理解して欲しい。

 俺は怒った顔のなつみをぼんやりと見た。ムスッとした表情はあの頃とひとつも変わっていない。だがそれを切り口にあの頃の記憶がワッと頭に蘇ってきた。それは思い出したくもない非常に退屈な日常だった。凸もなければ凹もない真っ平らな生活だった。思わず吹き出してしまうぐらい、くだらない毎日をひたすら時間を潰して過ごしていた。

 妙な呪文をかけられたみたいだ。変な気分がする。別に守りたいとか助けたいとか、特別な感情を抱いているわけではない。だが、できればなつみのこんな姿は見たくなかった。それが自我のない俺の数少ない本音だった。

「池谷先生、ご主人いらっしゃいました」

 田所さんはドアをノックしてから、俺に報告してくれた。そのすぐ後ろにご主人が笑顔で立っていた。

「あ、どうも」

「あー先生、どうも!お世話になってます」

 ご主人は俺の方だけを見て挨拶をした。だがなつみもまた不機嫌そうな表情をあからさまに見せた。

「もう17時40分ですよご主人。何してたんですか?」

「別にいいじゃない。こいつと話すの嫌なんだよ」

 ご主人はなつみを指さした。その瞬間、俺の中の何かが崩れた。思わず腹が立ってしまった。

「ま、まあ、とりあえずお座りください」

「はいはい。ったくよー、早く終わらせてくれ」

 俺が守るべきなのはこのクズ男で良いのだろうか。そんな弁護士として最低な考えがふと頭に浮かんでしまった。俺はそれを急いでかき消して、自分の仕事に集中するよう意識を高めた。

「ご、ご、ご主人、もう遅れないようにしてくださいね。色々予定が詰まっている場合もあるんで」

「うっせーな、なんだよごごごご主人って。しっかり喋れや」

 冷静になれ、冷静に。今日はどうも調子が悪い。それに吃音に理解がないのは仕方がないことだ。こんなことは珍しくないし、もう慣れた。今さら傷つく俺じゃない。

「ふっ」

 なつみが鼻で笑う声が聞こえた。ご主人に向けられた嘲笑であることはすぐにわかった。その瞬間、なつみがあの頃のように強く優しく見えた。そしてそれを俺自身が否定できなかった。駄目だとわかっていながら、この瞬間俺は彼女に救われたも同然だった。

 俺の心は徐々にご主人からは離れていった。弁護士としてご主人の味方をするという職務を全うする意志が、うっすらと揺らぐ。

 思い出せ、俺は弁護士だ。橋本先生にもこっぴどく言われたはずだ。例えそいつがどれだけ真っ黒だとわかっていても白と胸を張って言う。背徳行為など許されるはずがない。

「早くしなさいよ先生。俺この後用事あるんだからさ」

 ご主人は足を組んで、偉そうにそう言い放った。かなり大きな声だったので、田所さんにも聞こえていたかもしれない。

「女でもいるんでしょ?」

 なつみは尖らせた目線をご主人に向けた。

「バカな、いるわけねーだろ。不倫した奴が調子のんじゃねぇ」

「それはあなたでしょ?」

 俺は目を瞑った。そして歯を食いしばった。喉の手前まで言葉が出かかっている。この男には女がいる。不倫していたのはなつみではなく、ご主人の方だったのだ。ファイルの下に隠してある、先程大石さんから預かった写真がそれの全ての証拠だ。

 俺は何を思ったのだろうか。ご主人のために用意してきた大量の資料を、思いっきりゴミ箱に投げ込んだ。感情的になった俺を、理性が止めきれなかった。そしてその瞬間、殻を破ったように正義という名の偽善者が俺の中に現れてしまった。

「おい先生、何してんだ?早くこの女をギャフンと言わせてくれよ」

「む、無理です。できません!」

 なつみの視線を感じた。同時に、俺はご主人に胸ぐらを掴まれた。

「おいテメェ、ふざけんじゃねーぞ。俺は金払ってんだ」

 そこまで言い放って、ご主人は机の上に置かれた例の写真を見つけた。俺から手を離し、その写真を手に取った。

「はは、そういうことか先生」

「前田さん、あなた薪葉小学校の長居先生と学生時代、部活の先輩後輩の仲だったそうですね。それで自分に有利な証言をしてもらったんですか?」

「……」

 前田さんは怒り狂った目つきで俺を睨みつけた。だが反論はしてこなかった。それが紛れもない事実なのだろう。嘘で繕われた隙だらけの証言を崩すのは俺にでも簡単にできる。

「お前、やりやがったな」

「一応、弁護士である以前に人間なんで。人間らしい判断をしたまでです」

「もういい。覚えてろ」

 前田さんは荷物を乱暴に手に取ると、そのままの勢いで事務所を去っていった。俺は暫くぼーっとドアが揺れるのを見ていた。俺の手元に残ったのは一抹の達成感だけで、これを知った全てのクライアントの信用を失うかもという現実に気づくのには、少し時間が必要だった。

「弁護士としてはまだまだね。でもありがと」

「い、いや。全然」

 なつみも帰る支度をし始めた。俺は証拠の写真をビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。

「今からウチ来ない?」

「え?」

「なんか色々お世話になったし。ご馳走するよ」

「え、いや、でも……」

 俺が答えに困ると、なつみは呆れるように笑った。

「そういうとこ、変わってない」

 それを褒め言葉と受け取ってよかったのか。少し不安になりつつ、でもどこか嬉しかった。

「8時に来て。住所はわかるでしょ?」

「わ、わかった」

 流されるまま、俺はなつみの家にお邪魔する運びになってしまった。本当は断りたかったと言うと嘘になるが、気が進まないのもまた事実だ。

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