第5話 気づき

 祝日にも関わらず、俺は出勤した。橋本先生は休みだが、田所さんは事務所を開けるためにわざわざ来てくれた。

「今日は何時から?」

「17時からです。はぁ、緊張するなぁ」

 窓の外を除けば、珍しく雪が降っている。暖房を効かせている事務所も、いつも喋っていて口うるさい橋本先生がいないせいで少し肌寒い雰囲気だった。

「はい、コーヒー」

「あ、ありがとうございます」

 時間には余裕があった。家でゴロゴロしていても退屈なので事務所に来てみたはいいものの、まだお昼過ぎだった。

「田所さん、ずっと気になってたこと聞いていいですか?

「うん。何?」

「橋本先生とはこう、なんか、仕事中に気まずい雰囲気とかにはならないんですか?」

「え?そんなこと?」

 田所さんは笑った。夫婦だった2人の間に何があるのか、それは俺もあまり把握できていない部分であった。田所さんは備え付けのベンチに腰掛けて、思い出すように昔話を始めてくれた。俺はいつに間にかその話に聞き入っていた。

「あの人はね、昔っから仕事だけはできたの。それでお金ばら撒いて、周りに色んな女の子侍らせて」

「それは、今もそうですね」

「うん。でもね、なんか寂しそうだったの。女の子と遊びに行って何をしても、その次の日には寂しそうに仕事に戻ってきてたの」

「寂しそう?」

「そう。でも周りに強がって威張って、でもキチンと仕事に向き合ってる姿が、いつの間にかなんか愛しく思えてきちゃったの」

 田所さんの言いたいことがわかったと言えば、それは嘘になる。だけど彼女は惚れてしまう部分が確かに橋本先生にはあった。彼は女性には目がなく、自尊心が高く、思ったことはすぐ口に出してしまうためトラブルも多い。だが1人でいるのが苦手で人懐っこく、ケチでマメで神経質で、それでもって誰よりも努力家なのだ。でもいい人と褒められるのが嫌いで、自分の内側を隠している。厳つい見た目とは対照的な、可愛らしい男なのだ。

「それで結婚なさったんですか?」

「まあそうね、今思えばちょっとありえないけどね」

 彼らの結婚生活は5年で終わったと聞く。家庭内で何があったかは分からないが、田所さんの話し振りからは半分の後悔と半分の哀愁が感じられた。結婚も恋愛にも向かない俺は、羨ましくも少し憎たらしい感情が湧いた。

「あ、この話はあの人には内緒だからね」

「は、はい。もちろんです」

 田所さんはゆっくりと立ち上がって、俺に笑みを浮かべた。それが何の笑みなのかは、しばらく考えてもよくわからなかった。ただ、彼女が橋本先生のことを仕事の面では今も尊敬しているのはわかる気がする。そうでなければ一緒に仕事をしないと思う。

 俺は何気なく天井を見上げた。なぜだろうか、少し不安になった。その理由を探し始めて、すぐに辞めた。触れてはいけない感情に触れそうな気がした。

 俺はデスクに真っ直ぐ向き合った。俺には仕事しかない。橋本先生や田所さんのドラマのような関係も、親友も恋人もいない。それでも俺は十分幸せだ。もう何も望んでやしないんだ。

「池谷先生、お客様」

「え?」

 俺は焦って立ち上がって、事務所の玄関を覗いた。まだ前田さんが来るような時間じゃない。一体誰だ?

「お若い女性がお二人。とうとうモテ期?」

「いい、い、いや。そんなわけないです」

 思うように口が回らない。だが田所さんは気にせず俺のことを待ってくれている。

「す、すいません。えーっと、橋本先生いないですけど大丈夫ですかね?」

「いいんじゃない?たまにはこういうこともしてみたら?先生にはあとで私から連絡しておくわ」

「は、はい、わかりました。お願いします」

 俺はデスクの引き出しから手帳とペンを取り出した。それを持って応接室に入って、テーブルの上に手帳を置き、空調をつけた。

 ちょうどその時、後ろからガチャっとドアを開ける音がした。

「失礼します」「失礼します」

「どうぞ、手前の部屋にお入りください」

 俺はスーツの襟を正し、ネクタイをきつく締め直した。橋本先生が不在の時に、自分1人でお客さんの対応をとるのは初めてだ。緊張を上回る不安が俺を襲う。

 コンコンコン。

「ど、どうぞ」

「失礼します」

「えっ?」

 俺は不覚にも驚いた。田所さんの言う通り、突然の来客は2人の女性だったが、そのうち1人は知っている人だった。

「お、お、大石先生?」

「こんにちは。先日はどうも」

「いえいえ。ここ、こちらこそどうも」

 俺はジャスチャーで2人に座るよう施した。その後俺も席についた。

 大体の要件は把握できている気がした。大石先生がここに来たのは、俺の名刺が彼女の手に渡ったからだろう。ソファーの隙間に挟むという荒技が通用したのか。俺はなんだか嬉しかった。初めて自分のしたことに結果が伴ってきた気がする。

「わざわざありがとうございます、大石先生。いや、大石さん。し、失礼ですが、えっと、お名前よろしいでしょうか」

「初めまして。申し遅れました、有村結衣です。一応派遣会社で働いていて、今回は咲ちゃんの付き添いです」

 俺は目を細めた。この有村さんもどこかで見たことがある気がするのだ。それも結構頻繁に会っている気がする。2、3日前にも彼女のような人を見た記憶が遠くにある。だがスッとは出てこなかった。

「な、なるほど。えっと、ご用件はなんでしょうか?」

 大石さんは下唇を軽く噛んだ。前回、彼女の学校に行った時の光景が彼女の日常なら、俺には大石さんがここに来るであろう理由がぼんやりとはわかる気がする。

「今の職場で悩んでらっしゃるんですか?パワハラとか?」

 大石さんはそれを思い出すだけでもショックなようだった。有村さんが代わりに頷いてくれた。

「パワハラに加えてセクハラもだそうです。咲ちゃんは転職を考えるほど悩んでるんです。池谷先生、どうにかなりませんか?」

 俺は汚い文字でメモを取った。俺の考えた通りでほとんど間違ってはいなかった。名刺が彼女に届いて本当によかった。そうでなければ俺は困った人を見殺しにしてしまうかもしれなかった。

「わかりました。どうにかします」

「え?本当ですか?」

「は、はい。実は以前学校に伺った際に、取材の様子を録音させていただいてたんです。もちろん物証はもう少し必要ですが、いずれにせよ声を上げることで事態が好転することは間違いないかと思います」

 パワハラやセクハラは原告側が攻める、被告側が防戦一方とはっきりしているのもあって、原告に不利な判決が出ることはまずない。そのため何でもかんでもパワハラと抜かす奴もいるが、彼女の場合はそうではないだろう。

「でも別に訴えたいとか、慰謝料を払ってほしいとかじゃないんです。ただ職場環境を良くしたいだけで……。直接本人に言うのも気が引けてしまって」

「な、なるほど。では私から校長先生や長居先生に直接話をしておきます。それでも変わらないようでしたら、法的手段をとるのでまたお越しください」

 大石さんは有村さんと薄っすらと微笑みあった。俺を頼って良かったと思えてくれたなら、今回は成功だ。なりたい弁護士にまた一歩近づいた。

「そういえば池谷先生、前田さんの件でお伝えしたきゃいけないことがあって」

 俺が悦に浸っていた時に、大石さんは口を開いた。

「あ、は、はい」

「長居先生の話を信用しないでください。あれは全部デタラメです」

 そんなことは言われなくてもわかっていた。だけど1番言ってほしくはない言葉だった。俺は自分の顔がジワジワと青ざめていくのを感じていた。

「池谷先生、これを見てください」

 大石さんが俺に見せたのは、前田さんのご主人が若い女性の腰に手を回しながら、繁華街を楽しそうに歩いている写真だった。

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