第4話 迷い

 大石と会う予定の小さなカフェは、車通りの多い大通りから狭い路地に入り、少しお洒落なマンションを右手に曲がった角にある。有村は約束の10分前にはそこに到着し、先にホットコーヒーを注文していた。

 有村は壁の一部がガラス張りになったところから外を覗き、空を見上げた。午後から雨の予報だったが、そんな素振りも見せず雲ひとつなく晴れ渡っている。奇妙なものだと感心しながら、熱いコーヒーを啜った。

「有村さん!」

 有村はハッとした。後ろを振り向くと大石が立っていた。

「あら大石さん。こんにちは」

「こんにちは。すいません!私も同じもの下さい!」

 大石は窓口に来た時より、少しばかりか元気な様子が垣間見えた。有村にとっては嬉しい誤算だった。

「あれから何かあった?」

「はい。ちょっと優しい人に出会いまして」

「学校の人なの?」

「いいえ、違います。弁護士の方で、私の小学校に用があっていらしたんですけど、私の話を聞こうとしてくださったり、お茶を持っていったらお礼を言ってくださったり。なんかカッコよかったなぁ」

「大石さん、それ普通のことよ。それができない人は常識のない人よ」

「まあ、私の上司がパワハラマシンですから。普通の優しさが特別に見えちゃうんですよね」

 大石の悩みが根本的に解決していないことを知って、有村は胸を痛めた。もう今更他人事だと割り切れる訳がなかった。

「派遣先のこと、すいませんでした。見つけられなくて」

「いえいえ、いいんです。パワハラもセクハラも慣れてしまえば何とも思わなくなるんで」

「大石さん、それは……」

 それはダメ!と言いかけてやめた。そんな上から物を言える立場ではないし、そもそも彼女に見苦しい思いをさせているのは派遣先を見つけられなかった自分の責任なのだ。大石にあれこれ言うのは常識的にあってはならないことだと悟った。

 2人はコーヒーを口に運んだ。コクのある苦味が口に広がって、爽やかな香りに包まれた。黙り切ってしまった2人は、しばしその味を楽しんだ。

「あ、これがさっき言ってた弁護士さんの名刺です」

 大石はそれを財布から出してきた。有村はそれを手に取って、じっくりと眺めた。

「橋本法律事務所、池谷慎也。知らないなぁ」

「逆に1人でも弁護士で知ってる人います?」

「いや、そう言われるといないかも」

 その時、有村は至極単純なことを思いついてしまった。

「ていうか大石さん。この人にパワハラの相談してみたら?弁護士さんならなんとかしてくれるかもじゃない!」

「有村さんすごい!それは名案です!」

「いや、私たちなんで今まで気づかなかったんだろ?」

 有村は思わず笑ってしまった。それを見た大石も腹を抱えて笑ってくれた。物凄く楽しかった。

「私なんか彼のこと、いい男だなってそういう目線でしか見てませんでした」

「そうなの!?もう〜、大石さんったら」

「有村さんは彼氏とかいないんですか?」

「うん、まあねー。仕事が忙しくて時間ないし」

「あはは、意外!」

 有村と大石は、その後長く談笑した。すっかり距離が近づいて友達になった。職業も年齢も離れているが、価値観もかなり似ていて互いを理解し合うのに時間はかからなかった。

「じゃ、また会いましょ!」

「うん、じゃあね」

 そう言ってその日は笑顔で解散した。弁護士には土曜日の午前中に2人で行くことになった。


………………………………………………………


 話し合いが明日に迫る中、前田さんのご主人が有利になるような証拠ばかりが手元に用意されていた。どれも裏が取れない怪しい出どころの情報ばかりだったが、それを本物らしく見せるのが俺の仕事な訳だ。だが、相手に弁護士がついていないのが本当なら、尚更楽になるかもしれなかった。

「池谷、今回の前田さんの件が上手くいったら、新しい案件あげることにするぞ」

「え、ほ、本当ですか!?」

「ああ。もう離婚案件は飽きたろ?」

「ありがとうございます!」

 いつ以来なのだろうか。離婚案件以外を扱うのは。それだけでワクワクするし、何より橋本先生の期待を受けているということが嬉しかった。一人前とは程遠い俺だが、この案件が大きな一歩になる、そんな気がしてならなかった。

 俺は背もたれにもたれかかった。柔らかい椅子がミシっと鈍い音を上げた。俺はぼんやりと天井を見上げ、思うがままに深呼吸をした。肺の中に入った新鮮な乾いた空気は、俺の心拍数を下げるのに貢献した。

 その時、俺の携帯から通知音が鳴った。

「ん?」

(お世話になっております。前田です。明日、話し合いの場が設けられておりますが、状況はどうでしょうか。以前伺った時は私が有利と仰っていましたが、明日は問題なく進めるでしょうか。何かありましたらご連絡下さい)

 俺はさーっと目を通し、返信した。

(お世話になっております。今のところは問題ありません。こちらが優位に立てると思っていただいて大丈夫です。では、明日の17時にお待ちしております)

 弁護士がやってはいけないことの1つに、クライアントを安心させるような言葉をかける、ということがある。無闇に「勝てる」とか「大丈夫です」というような言葉を使ってはならないのだ。

 もう少し俺が冷静さを保っていれば、メールにそんなことを打ち込むことはなかっただろう。俺は送信ボタンを押した後に浮ついた態度の自分を後悔した。

 俺は自分の部屋と同じぐらい散らかったデスクの上を、のんびりと片付け始めた。何をしようと思ったわけではないが、それをしないと気が済まない気分だった。

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