第3話 動き出す運命

 有村結衣は珍しく頭を悩ませていた。小学校で先生をしている大石咲の派遣先が一向に見つからなかった。理由は転職がスムーズに行えないからだ。教師という職業柄、今すぐに退職できないため、派遣先が彼女の雇用を渋っているのだった。派遣社員はスピード感が求められている場合がほとんどなのだ。

「有村さん、こっちもダメでした」

 内田真知子は有村にそう報告した。彼女は窓口勤務1年目の新人で、有村の直属の部下でもある。

「そっかぁ。うーん、どうしよ」

 有村の頭には、昨日の彼女の姿が鮮明に残っているのだ。疲れてやつれた顔、重荷を背負わされ猫背になった後ろ姿。そんな彼女を思い返すと、どうも諦めるわけにはいかなかった。

「賃金がもっと安くていいなら、もうちょっと可能性も広がるんですけどね」

「それはダメなの。大石さんのお母さんが入院なさってるの。これ以下の賃金じゃ生活できなくなっちゃうもの」

 有村はもう一度、コンピュータに目を移した。何度も何度も条件を確認するが、もう譲れる箇所は1つも残っていなかった。

「有村さん、私もう帰りますね。定時なんで」

「え、もう?大石さんの件まだ解決してないじゃない」

「私今日予定あるんです。じゃ、お先です!」

「ちょ、ちょっと!真知子ちゃん!」

 内田は有村の言葉には耳もくれず、カラフルなキーホルダーのたくさん付いた鞄を背負って、そのまま帰っていった。有村は目を点にしたまま、そんな光景を眺めていた。無意識のうちに大きなため息が出た。

 有村は完全に立ち止まってしまった。彼女の経験や知識を持ってしても、解決には程遠い。仲の良い後輩も帰ってしまった。心にぽっかりと空いてしまった穴は、これ以上コンピュータと睨めっこを続けても埋まりそうにはなかった。

 有村は責任感が人一倍強かった。彼女にどうにかなると言ってしまった手前、何もせず引くに引けなかった。彼女をそのまま辛い職場に放っておくことなど、考えられなかった。

 有村はなにも考えずに、備え付けの電話に手を伸ばした。大石の番号を打ち込み、受話器を耳に当てた。

《はい、もしもし大石です》

「もしもし。タイト・スタッフの有村でございます」

《ああ、有村さん。どうも》

「どうも。あの、1つお伝えしたいことがございまして」

《見つかりました?派遣先》

「いえ、申し訳ありません。それが、中々条件に合う会社がない状況でして……」

 有村は電話越しの相手に頭を下げていた。歯を食いしばりながら、額をデスクに押し付けていた。

《そ、そうですか……。残念です》

 その言葉は有村の心を締め付けた。辛い瞬間だった。

《じゃあとりあえずは今の職場で頑張ります。ま、ちょっとしんどいけど》

「あの、何か私にできることはありませんか?その職場で悩まれているなら、私でよければ相談に乗ります」

 有村は途中から、自分が何を言っているか全くわからなかった。思いつくがままに言いたいことを言った。それが派遣会社の窓口の仕事の範疇を大きく超えていようがいまいが、それが有村のなすべきことだと自覚していた。

《あの、じゃあ、2人で会えませんか?》

 それは有村にとって嬉しい返事だった。自分に仕事を逸脱していることなど、もうどうでも良かった。

「ええ、是非!」

 有村は近く大石と会う約束を取り付けた。


………………………………………………………


 事務所に戻った俺は、黙々と前田さんの資料を整理していた。

「池谷先生、どうだった?」

「あ、あの学年主任の先生、何か隠しているんじゃないかと思うんですよね。それが結構問題じゃないかと」

「あら、そうなの」

 田所さんは俺にお茶を入れてくれた。俺はそれを口に流し込んだ。

「その学年主任はなんて言ってたんだ?」

「前田さんのご主人はいい人です、みたいな。子供思いで優しいってベタ褒めでした」

「いいじゃないか。それの何が問題なんだ?」

 橋本先生は俺のデスクの資料を後ろから覗き込んだ。じっくりと見て、やがてその険しい目を俺にも向けた。

「まさかその嘘を暴こうってんじゃないだろうな?」

「は、はい」

 橋本先生は資料をデスクに投げ捨てた。

「お前は誰の弁護士だ。前田さんのご主人だ。いいか?ご主人が勝つための仕事をしろ。有利な証言があるなら、嘘かもと疑問を抱いても信じて疑うな。それがお前のやるべき仕事だ」

「す、す、すいませんでした」

「ったく。無駄なことばっかりしやがって」

 そう言い残すと、橋本先生は自分のデスクに戻っていった。俺は暫くそのまま動けなかった。橋本先生の言葉を理解しつつも、俺の中には迷いや戸惑いが溢れていた。それが仕事だと分かっていながら、自分自身に嘘をつくことが怖くて情けなかった。

 だけどそういう風に自分を割り切れる橋本先生にはやはり脱帽だ。それが彼の尊敬できる所であったし、自分もいつかはそうなりたいと思っている。だが今の俺には到底それが難しい。

「あの、橋本先生。奥さん側の弁護士と連絡取りたいんですけど、いいですか」

「奥さんはまだ弁護士を立てていない。ショックで家からも出られないそうだ」

「え……」

 このままでは本当に旦那さんのやりたい放題になってしまう。それを助けるのが俺の仕事なのだが、複雑な気持ちに変わりはなかった。もどかしかった。

「まずは和解に持ち込む方向で進めてくれ。裁判はやむを得ない場合だけだ。いいな?」

「は、はい」

 橋本先生はそう言い残すと、高いジャンパーを羽織って仕事に出かけた。橋本先生に比べたら俺なんかポンコツでしかない、何故かその光景から俺はそんなことをつくづくと思い知らされた。

 お茶を飲みながら、チラリと資料に目を向けた。両者の話し合うの場が2日後に設けられている。俺はまた大きなため息をついてしまった。俺の悪い癖だった。


 その日の帰り、久々に外食をしたい気分だった。事務所を出てコンビニの角を曲がり、大通りを少し歩く。5分もすれば俺の行きつけの定食屋が見えてくる。落ち着いた色の看板に、「てんや」の文字が懐かしい。俺は暖簾をくぐって店内に入った。

「いらっしゃいませ!」

 ここが他の店と違うところは、アットホームなところだ。味も雰囲気もゆったりとしていて、これほど落ち着ける場所は家かてんやの二択だった。とは言うものの、最近は忙しくてあまり行けていなかった。

「すき焼き定食で」

「はい、かしこまりました〜」

 1人で来ても気にすることない、誰でも受け入れてくれるような抱擁感がある。和風な作りの内装がそれをさらに助長している気がする。

「すき焼き定食、お待たせしました」

「ありがとうございます」

 この店に来る時は、大概すき焼きを頼む。定食にするとご飯とお味噌汁とお漬物がついてくる。これで1500円、味噌汁とお米はお代わり自由。手頃な値段でボリューム、味とともに群を抜いている。この店以外に俺を満足させる店はないだろう。

 この日も久々に、ゆったりと夕食を楽しんだ。これ以上無い幸せをたっぷり味わい、この日は店を出て家に帰った。

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