第8話 大きな出会い
繁華街を1人歩く。すれ違う人はみんな笑って幸せそうだ。俯いていてもそんなオーラを感じて心底焦ったくなる。
何というか、もう全てどうでもよくなった。人間関係を作るのは歳を重ねても苦手なのは変わらないし、仕事という盾も自分の失態で失いつつある。仕事でしか生きている価値を見出せなかった人間がそれを奪われた時、一体どうなるかなんて想像してみるのも怖い。
ため息を口に出した瞬間、お腹が鳴った。そういえば夜ご飯を食べていない。なつみの家でご馳走になる算段が狂ってしまった。時計の針は20時半を示している。家に帰って何か作る気も起こらない。この辺で食べて帰ろうか。
そう思って重い視線を上げた時、たまたま行きつけの店てんやの看板が目に入り込んできた。今は知らない店に行くよりは、てんやに行って色々と落ち着きたい気分だ。俺はてんやに向かうことを即決し、交差点の信号機が変わるのを待った。
歩行者信号が青になり、片道3車線の大通りを渡る。そのまま路地に入って、てんやの暖簾を潜った。が、驚くことにドアに鍵がかかっていた。
「え?」
視線を落とすと、休業日と記された紙がドアに貼り付けられている。俺は声を出して落胆した。ああ、そういえば今日は祝日だった。もう口はすき焼きの気分だったのに。その瞬間、今日の疲れがドサっと降りかかってきた。俺は倒れるようにドアに寄りかかり、頭を抱えた。
「あ、あの」
「え?」
暗い店内から女性の声がした。俺は慌ててドアから離れた。
「池谷先生……?」
ドアを開けた女性は俺の名を知っていた。俺からは周囲が暗くて彼女の顔がハッキリわからないが、知り合いだろうか。
「あ、今日はお世話になりました。有村です。有村結衣です」
「あ、有村さん!ど、どうも」
今日、大石先生と一緒に事務所に来られた方だ。覚えている。確か派遣会社で勤務なさっていたはずだが。なぜてんやの店内にいるんだろうか。俺は固まってしまった。
「あ、そうですよね。何で中にいるのって話ですよね。実はこの店、私の叔父と叔母の店なんです。仕事しながらたまに手伝ってて」
「あぁ、な、なるほど」
「お食事、お作りしましょうか?」
「え、でも今日休みですよね」
「叔父と叔母はいません。でも私で良ければ、全然構いませんよ。かなりお疲れのようなので」
有村さんはそう笑顔で俺に言ってくれた。何というか、とりあえず素直に嬉しかった。
「じゃあすいません。遠慮なく」
「いらっしゃいませ。さ、どうぞ」
店内の雰囲気はいつもとは違う。有村さんはすぐに電気をつけてくれたが、いつもお客さんで繁盛している店に、こうして2人きりなのは緊張する。まして有村さんは若くて綺麗な方だった。
俺は普段は座らないカウンター席に腰を下ろした。席の高さが思った以上に高く、座り慣れない俺はちょっと苦労した。
「すき焼き定食でしょ?」
「あれ、なんで?」
と、そう言った瞬間に彼女がここで働いていることを思い出した。いつも俺がすき焼きばっかり食べるのを知っているのだろう。俺は照れながら微妙に頷いた。恥ずかしくて赤面した。普段はあまり知られないように隠していたり、いなかったり。
「はい、任せて」
カウンター席からは有村さんの手筈がよく見える。手際が良く、瞬く間に俺の好物の匂いが店内に漂い始めた。
「はい、お待ち〜」
「おお、美味しそう!」
「さ、どうぞどうぞ。遠慮なく」
「はい、じゃあいただきます」
俺は生卵を割って箸でかき混ぜた。いい感じになったら白菜と肉を卵に潜らせる。ご飯の上にバウンドさせ、勢いよく口に運んだ。とても美味しい。鼻から抜けるすき焼きの匂いがさらに食欲をそそる。
「どうです?」
「めちゃめちゃうまいです」
「そう?ありがと」
有村さんは照れ笑いを浮かべた。俺は遠慮なくご飯を頬張った。すき焼きの味が染みた米は最高だ。
食事してる間だけは、今日の出来事を忘れることができた。ひとときの幸せを噛み締めることができた。出来るだけ長く、この心身共に満たされた時間を過ごしたいと感じた。
ホッとしたのかもしれない。いつのまにか俺は泣いてしまっていた。泣きながらも平然とご飯を食べ進めている自分がいた。
「え、大丈夫ですか?」
有村さんが心配に思うのも無理はないだろう。この状況を理解できていないのは俺も一緒だ。
「わ、わかりません。でもなんか……、なんか落ち着くっていうか……」
人前で泣くことに躊躇いを感じない人はいない。俺も例外ではなく、むしろ強がってしまうような弱い男だ。だがこの時の俺は普段とは一味違った。ここなら素の自分を出してもいい気がした。アットホームな雰囲気に加え、有村さんの存在がまた少し影響しているのだろう。
有村さんは目を丸くしたまま、俺が食べ終わるのをしばらく待っていた。泣きながら飯を食う客は俺が初めてだったのかもしれない。
「ごちそうさまでした」
お米一粒残さず綺麗に食べ終わると、俺はティッシュで涙を拭き取った。だがご飯を食べ終わってしまうと、頭の中にまたさっきのモヤモヤが再燃してくる。これもご飯と一緒に丸呑みできたら良かったのだが、そう簡単に行くはずもない。
「弁護士って大変なお仕事なんですよね?」
「え?は、はい、まあ。すごく大変です」
有村さんはエプロンを取ってカウンターの上でたたみ、ゆっくりと腰を下ろした。
「私、実は看護師になりたかったんです」
「え?」
俺は少し驚いた。彼女の空気感が俺にそう思わせた。
「私、お父さんが古風な考えの人なんです。女は家事をしろ、仕事なんかするなって」
「そ、そうなんですか……」
「だから叔父さんに無理を言って、ここで働いているんです。ここならお父さんも何とか許してくれて」
「……」
「でも本当は、もっと人の役に立ちたいなって思ってるんです。学生の頃、すごく頑張って勉強して大学に入って、看護師の資格を取ったんです。でもお父さんは私が医療現場で男に揉まれて働くことを強く嫌がっちゃって。だから叔父さんは、お父さんに黙ってるから、看護師じゃなくてもいいから、せめて外で働いてきなって言ってくださって。それで今は派遣会社で窓口をしながら、たまにてんやのお手伝いをしてる感じです」
今日初めて会った人にする話にしては、少し重くないか、と思った。だが彼女は俺と違って、自分を曝け出すことが得意なんだろう。全部抱え込んでしまう俺とは極めて対照的だ。
「池谷先生はどうして弁護士になられたんですか?」
「お、俺は……」
俺もこの歳になると、そんなことを聞いてくる人はあまり多くない。俺は少し戸惑ったが、実は明確な答えを持っている。
有村さんは興味津々に俺が口を開くのを待っている。俺は彼女と違って、ほぼ初対面の人に自分の身の上話をするような人間じゃない。だが彼女は変わらず真っ直ぐな視線を俺に向けている。
「まあ、人を助けたいっていうか……。弱い立場の人を助けたいなぁって」
渋々口を開いたが、これが本心だ。やはり言葉にするとダサく聞こえる。
「素敵じゃないですか。羨ましいです」
有村さんはそう答えた。
「あ、ど、どうも」
実際は仕事をクビになりかけているなんて、言えるわけがない。もうバレているかもしれないが、吃音のせいで人と話すのが苦手なのも言いたくない。俺には教えたくない秘密ばっかりだ。
「そろそろ来るはずなんだけどなぁ」
と、時計を見た有村さんがボソッと呟いた。
「え?だ、誰か来るんですか?」
「はい、咲ちゃんです」
その時、てんやのドアをガラッと開ける音が耳に入った。
「いらっしゃい!」
「こんばんわ!結衣さん!」
俺は驚いた。そこにいたのは薪葉小学校の大石先生だった。
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