今井の掌返し
一階の隅にある新規の部署は未開の地だ。西崎からのパソコン依頼――設備科の睦月モエは手押しカートにパソコンを乗せて訪れる。
「依頼のパソコンをお届けに来ましたってカオルか」
「あー、仕事が早いな。ありがと」
顔見知りの関係を察した今井は二人の顔をきょろきょろと観察している様子だった。
「上司に持ってけって言われて来たけど知り合いで良かったー。知らない人だったらちゃんとしなきゃじゃん」
「僕でもちゃんと仕事してくれ」
「えぇー、だって私がやるよりカオルの方がテキパキ設定とかしそうじゃんかよー」
今井カナが最近の若い女性だとしたら睦月モエは経験豊富なキャリアウーマン。背が高くミディアムショートの黒髪は大人ぽい雰囲気を漂わせている。整った顔立ちのモエはカオルの隣でじーっと見つめるカナを見つけた。
「あら、初めまして。睦月モエです」
「今井カナ……です。初めまして」
僕の知っているテンションではない。むしろカナはしょんぼりしているように見えた。
「この子は期待の新人だ。超期待している」
「へぇー、カオルが期待……ね」
つかつかとカナに近づいたモエはふーんと言いながらカナを観察している。その様子を僕は側で見ていた。
「なんですか?」
カナは素直な疑問を口に出す。僕も不思議な間を感じて言葉を発すること無くその様子を眺めていた。
「可愛い!」
じっくりと観察したモエから出た言葉だった。小動物に対する可愛いと同じテンションを僕は感じ取る。きゃーとか言いながらモエはカナのほっぺたを触っていた。
「ぷにぷにだ」
そのモエを見てきょとんとした後に嫌そうな顔をしている。この睦月モエという女は新人にスキンシップしていた。急に顔を触るという暴挙である。もしも、僕が初めて会った新人のほっぺたを触ろうものなら地獄に落ちるだろう。
そらみたことか! とカナの表情がとても微妙になっている。
「ねぇ、この子うちに連れてって良い?」
「ダメです。これから今井には頑張ってもらうところなので」
はっとした今井は軽くモエの手を払いサッと僕を盾にした。
「ぐぬぬ。カオルが間に挟まって邪魔をしている」
「僕からは怖がっているようにも見える」
僕――西崎カオルと陸月モエの関係性は至極単純に説明することが出来る。端的に表現するならば同期だ。
部署も何もかも違う僕とモエは接点が殆どない。同じ空間で仕事をしたことも殆ど無ければモエはシステムのエンジニアという訳でもなかった。設備科……管理部のような場所で細かい雑務を熟す彼女との唯一の接点。
それは神下部長だ。今はハードボイルドがマイブームらしいが当時はピエロ姿で新人を集めて勉強会という隠れ蓑で飲み会をしばしば開いていた。
神下部長に引っ張られて参加する旅に陸月モエと会話をする機会があり見知った仲となっている。
気兼ねなく話せる同期をあげるならば彼女が真っ先に思いつく。
「怖がるってそりゃカオルが間に挟まるから……カナちゃん。覚えとこうっと」
モエは本来の目的であるパソコンを乗せたカートを押して僕に何処へ運べばいいのかを尋ねる。それに対して一番窓側の何も置いていないスペースに指示を出す。
ガラガラと音を出しながらモエが押して運んだ。
僕は重いパソコンの本体を持ち上げると机の下に収める。その様子を見ていたカナもキーボードや配線コードを手に取った。
「カナちゃん。何か困った事があったら何でもお姉さんに聞いていいからね」
「は、はい。先輩が分からない事があったら」
ふむ……果たしてカナがモエに尋ねる日が来ることは無いと僕は心の中に秘めた。
パソコンの設定も全部僕の方が詳しいはずだ。業務も部署が違うのでモエが教えられる事は思いつかない。
「カオルが社会人一年目にどんな人だったとか気楽に聞いてもいいのよ」
「是非教えてくださいお姉さま!」
おっと、秒で掌を返す言動の後輩が心配になってしまう。
「それも僕に聞く案件だな。決してモエに聞いてはいけない」
無いことを吹き込まれる可能性を感じた。何故ならばニヤニヤと気持ち悪い顔の同僚が目の前に居る。
「とりあえず、仕事をしよう」
すべてを切り捨てるように僕が呟いてパソコンの設置作業を開始させた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます