今日だけは何でも許します



 社会人になって初めて恋人が出来た。それが後輩というか部下というのは些かズルい気もするが、出会いの形は些細な問題だとも見れる。運命の神様という表現も好きじゃない。何故なら僕が彼女と付き合って恋人という関係を心から望んでいた。好きと言われてなびいた訳でも無く、短い期間とは言えうすうす自分の気持にも気付いていた。


 一緒にいる時は安心感を肌で察した。見守りたいとも心から思うし応援もしたい。まだまだ未熟者で何もない彼女が行末を見守りたい。


 恋人になるからには……幸せをつかみ取りたい。


「えへへー」


 嬉しそうな彼女の顔を見て自然と僕も顔が緩む。


 これでは想像上の概念だと思っていた『バカップル』である。


 口約束とも言える告白だけで、関係の大きな変化を感じる。


 さて、困った。僕が社会に出て業務経験を積んだと胸を張って言えるけれども、恋人という形は社会人になってから初めてだった。


 別に彼女に利害を求める気もない。素直な気持ちが想像以上に新鮮で、一言で今の僕を表現するならば『幸せ』だ。


「今井……なんか気恥ずかしいな。約数時間前まではホラー映画を見に来ただけの関係だった気がする」

「あのー、先輩? 恋人ですよねぇ? 今井って名字で呼ぶのは変じゃないかな?」


 ぐっ。正論だと取れた。


 名前を呼ぼうと思ったが、喉に魚の骨がつっかえたような感覚に襲われる。今日は会った時から普段は私という一人称から『カナ』と自分の名前を言っていたのに気付いている。そして、僕も一度だけ冗談まじりで『カナさん』と口には出した。


 しかし、今は状況が大きく変わっている。


 そっと、今井カナは僕の胸に頭を預ける。


 よく見るとその耳は僕の心臓の鼓動を聞いていた。


「先輩……意外とドキドキしてる」


 油断した。なるべくポーカーフェイスを貫こうとしていたが、こんな手段を取るとは思わなかった。


「別に心臓は勝手に動くからね」

「カオルの心臓は働き者だ」


 西崎カオル。自己紹介はしたからその名前を知っていても不思議じゃない。関係の変化に伴い名前で呼ぶのも極自然なことだ。


「か、カナが恐ろしい。僕はすぐには慣れないんだけど……」


 鼓動増す僕の胸から離れたカナは僕の手を引っ張った。


「恋人だから……手を繋ぐのも自然だよね?」

「そう、だな。恋人ならそりゃまぁ、手を繋ぐくらいは自然と考えてもおかしくない。土地勘の無いカナが迷子にならないように手を繋ぐと考えても普通だな」


 冷静になると、関係が変わっただけのはずなんだ。それなのに、全てが新鮮に見える。


「ふふふっ、カナは知ってるのです。カオルはお酒にも弱くて直ぐ酔っ払うし、帰りが心配になるくらい悪酔いする。酔っ払いのカオルは普段より素直で何でも答えてくれるから逆に心配になっちゃう。家の場所を尋ねたらちゃんと教えてくれて助かったけど……あと、ちゃんと定番のベットの下にはけしからん本が」


「まてーい。人が記憶を失っている間に何を……」


 成人男性の極秘機密情報が漏れていた。情報漏洩にも無理がある。


「そういう物があるのか尋ねたら教えてくれたよ?」


 社会人経験を経て僕は情報漏洩の怖さを十二分に把握している。そんな僕が僕の情報を自ら漏らしていた。ダダ漏れにも程がある。いくら酔っ払いだからとは言え、こんなに可愛い子に漏らすな過去の僕。


「忘れよう。僕のベットの下は綺麗で何もない。いいね?」

「意外と大きいタイプが好き……」

「さーて、この後はどうしよっか? 映画とショッピングの後は無いを予定していたの?」


 僕は話題を逸らす為に元々の予定を尋ねた。


「あ、逃げた。まぁ、今日のところは許しましょう。本当は観光をメインにあっちこっち行こうと思ってたけど……折角の都会だし遊園地とか動物園もありだなぁ……大きな水族館とかそういうデートの定番も行きたい」


 デートの定番。


 そう、僕達は恋人という関係値に変化した。


「ゴールデンウィークもまだ長いし。別に焦らなくてもいいかなぁ」


 都合が良い事にまだまだ時間は一杯あった。


「んー、とりあえず。あまりお金は使わないで都会を見て回るだけでもいいかな? ほら、東京タワーとかも近くにあるでしょ。仕事場の近くしかまだ行ったこと無いし。引っ越し作業で休みの日もなんだかんだやることやって疲れて回れてないし」


 新社会人の今井カナは四月から働き始めて今は五月……一ヶ月は仕事をしているから労働者の権利として当然、給料が支払われる。


 唯一の問題点はゴールデンウィーク明け後に支払われる点だ。社会人になり今日までカナは無給の状態である。そう考えると僕の所持金から映画代も出すべきだったと思う。ソレに関しては事前にカナが購入していたから口を挟む暇さえなかったけれども。


「んー。よく考えたらこの辺を知らないのって、カナだけでカオルは分かるからつまんないかな?」


 東京タワーにも何回か行ったことはある。展望台には登った事がないけれど、どういう場所かは把握していた。


 新鮮味に欠ける場所と表現するならその通りだが、一緒に行く人が新鮮過ぎてもはや初めて訪れる観光地だと言っても過言では無い。


「行きたいなら付き合うよ。カナが一番行きたいところって何処?」


 うーんと数分悩んだカナが導き出した答えは想定内の場所だった。


「カオルの家でゴロゴロするのもありかもしれませんね?」


 一度、招いたとは言え。記憶がない状態だった。


「ほら、掃除が行き届いてないし次の機会とか」

「一番行きたいところって言われてカナが真っ先にカオルの家って言ったのに……」


 相手に判断を任せた時点で僕が間違っていたみたいだ。


「仕方ない。不本意ながらうちに行くか」

「やったー。今度は酔っ払ってないカオルの家だ」

「もう僕は絶対にお酒には飲まれない」


 強く僕は決心した。これ以上の失態を披露する訳にはいかない。


 僕達はそのまま駅に向かって家を目指した。同僚が恋人になったのは不思議な感覚で慣れる気配がない。


 電車に揺られる見知った道も今は目に入らない。電車では人が多く会話をするわけでも無くカナは静かにゲームをしながら時間を潰していた。特に話す話題を考える必要もないと考えた僕は毎日少しずつ読み進めていた漫画に目を通す。


 映画館は現場よりも距離があり三十分くらいで最寄り駅に到着した。


「たしか、ここを真っ直ぐ行ってあの角を曲がるんだったかな。暗い時と雰囲気違う場所だね」


 商店街も近くにあり明るい時間だと人通りが多く賑やかな場所だった。少し通りを中に入ったマンションの三階が僕の借りている家となる。夢とも思いたい事実が僕に突きつけられた。


 僕は自分の階を伝えていないにも関わらずカナの指がエレベーターの三階を押したのだ。


「あってるよね?」


 カナの問に僕は頷いた。僕達はエレベーターを降りて自分の部屋の前で立ち止まり鍵を開けた。


「おじゃましまーす」


 靴を脱いで僕の生活する部屋にカナが足を踏み入れる。僕が記憶している限りここに引っ越してから女性を入れた事が無い。僕の中で記憶にない来訪はカウントしない。


「ようこそ」

「気になったけど、ちゃんとゴミは捨てようね?」


 痛いところを突かれた。だからまだ家に来てほしくなかったとも言える……あまりにも人を迎え入れる準備が出来ていないのだ。


「あ、ゲームあったんだ」


 暇な時にやるコンシューマーゲームが見つかった。新しい作品は追いかけきれてないから古いゲームばっかりだけど、軽く遊んで時間を潰した。対戦ゲームから協力ゲーム等をまさか二人で遊べるとは思わなかった。学生時代に買ったゲーム機で辛うじてコントローラーが二つあった。


 この時間で分かった事の一つとして、カナは不器用だった。確かに思い返すと僕が記憶をなくした飲み会でも瓶を開ける時に溢れさせてしまっていた。ゲームにも慣れていないのか操作がおぼつかない。


「なんでこんなに上手いの?」


 カナの疑問に対して答えは簡単だった。ゲームの持ち主は僕なので勿論プレイ経験の違いが大きく現れている。一時間だけ遊んだゲームと数十時間遊んだ経験は遥かに大きい。


 不器用なカナは悲しい事に負けず嫌いだった。僕が敢えて手を抜く手段もあるがゲームとは言え、勝負の世界。僕はカナがふてくされるくらいに勝利を収める。


「もー終わる」

「それがいい。流石に経験の差が大きいね」


 映画館へは昼過ぎに集合して、もう日が暮れる。結局、夕飯時まで遊んだ。


 長時間を友達とゲームで潰していたのは学生以来で懐かしく感じる。


 今は恋人と遊んでいるから状況は全く違うけれど、忘れていたあの頃を思い出した。


「さて、夕飯はどうする?」


 僕は日頃から料理をしない。何故ならば食材の下準備に調理をするだけで不慣れな僕だと約一時間かかってしまう。そして、食べた後に片付けを含めるとざっと二時間はなくなってしまうのだ。朝仕事に出て残業をした日には零時を過ぎてしまう。


 睡眠時間の確保も考えると定時で帰れなければ自炊するのはとても難しい。


 決して定時で帰ってきても自炊はしないけれども。


「料理……は普段しないんだね。実家ぐらしだからお手伝いレベルのわたしもこっちでやってないけど」


 効率化を考えてしまいコンビニの冷凍食品や外食で済ませがちだ。お金で調理から片付けまでの時間を買ったと考えれば千円くらいなら出しても惜しくない。


 多分そういう考えだから未だに自炊をしないんだと思う。


 冷蔵庫の中に飲み物しか入っていない事実で僕が料理をしないと導き出したカナはどうしようかと悩んでいる様子だった。


「ここの近くはラーメンんとかファミレスもあるしコンビニも近い。出前を頼むのもありだけど……」


 救いの手を差し伸べた。土地勘のないカナが近辺に何があるのか把握しきれていないだろうと思ったからだ。


「ピザとか頼む? 嫌いじゃないよね。お家でゴロゴロ過ごすデート……ふふっ人の目も無いし自由に出来ていいなって思った」


 ほほぉ。何処かに食べい行くと思ったが、その選択は選ばないみたいだ。僕は郵便受けに入っていたピザのチラシをちょうど捨て時を忘れて置いていたので注文した。


 宅配ピザをこの家で頼む経験をしたことが無かったが、調理場も近いからこそ三十分で届いた。配達員に料金を支払い僕は一人暮らしで愛用しているテーブルに広げた。


「何か見る?」


 ピザだけ食べるのも変かと思って僕は映画か何かを提案してみた。とはいえ、昼頃にホラー映画を見ているので何を見てもグロテスクな目を背けたく成るシーンがフラッシュバックする。


「うちまだ引っ越したばっかりでテレビが無いから久々にテレビ見ながらご飯食べないな―。映画はほら……お昼に見ましたし」

「そうだな」


 熱々のピザを食べながら冷蔵庫から炭酸飲料を取り出しだらけて、テレビを眺めていた。パソコンの画面をテレビに繋げて表示させる事もできるので僕はテレビを普段は大きなモニターとして活用している。


 月額払いのサービスで作品を見る日々を過ごしていたので、テレビさえも久々に見た。朝起きて天気の情報や電車が動いているかニュースで確認する程度でしか見る習慣もない。


 学生の頃に見ていたバラエティーも軒並み終了して知らない番組だらけだった。タレントも世代交代が進んでいるのか聞き覚えのない人たちが出ている。


「みてー、子猫だって。可愛いね」

「そうだな」


 ネットで見かけた事のある動物の動画から初見の映像も流れていた。番組を作る業界の事に関しては知らないけれど、旅するタイプの番組も多い気がした。


 彼女とピザを食べながらテレビを見る。


 なんて普通だろう。僕はテレビを見るカナを暫く眺めていた。


「あ!」


 突然叫んだカナに少々驚きつつも何かあったのか気になる。


「どうした?」


 視線を合わさずに僕に対して棒読みで告げた。


「し、終電が無くなっちゃったみたい」

「まだ零時まで三時間以上あるぞ。電車は動いている」

「ぐ……足に入れてた電池が切れちゃったみたい」

「電力で動いていたのか。充電ケーブルは持ってる?」


 考えを巡らせているカナの意図を汲み取る事くらいは出来る。


「そのカオルさん。恋人が家にお泊りするのは自然だと思います。ほら、えっと。ピザを食べてお腹も膨れて眠いと言いますか。なんといいますか」


「歩いて駅まで向かうのも怠いし家に帰りたくないから泊めて下さいと?」

「翻訳が上手いですね。何処で学んだんですか?」


 僕も一人の男だという事を失念しないで欲しい。全くもって無警戒である。しかしまぁ、付き合ったその日に手を出すような度胸は残念ながら持ち合わせていない。


「はいはい。ベットが一つしかない問題が大きいな」

「恋人同士なら添い寝するくらい普通だと提案します」

「普通と言われたらその通りかもな。異常とはいえない」


 よしっとガッツポーズをして布団にカナは潜り込んだ。もぞもぞと動いて顔を出して早く来なよと手をちょこちょこ動かした。


「服も着替えてないな」

「今日は偶然、お泊りセットを持ち合わせてないのでパジャマ姿のお披露目は後日となります」

「歯も磨いてない」

「一日くらいなら許されます」

「残念ながら此処は僕の家だ。だから、僕の歯は平和が保たれる」


 洗面台に行こうとした僕の手をがしっとカナが掴んだ。


「抜け駆けはダメだと思います。さぁ、一緒に戦うのです」

「仕方ない。普段は絶対に磨いて布団に入るが……この空気は仕方ない。今日だけ甘い日にするとしよう」


 ちゃんと狭かった。一人暮らし用のベットに二人はいるのは辛い。カナは体力に自信も無い様子ですやっと眠りに入った。


 普段と違う環境に隣の存在感が業務時と大きく違って僕は三時間遅れて眠りについた。

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