2-17
胸ぐらをつかまれるのは初めてのことじゃなかった。いのちの危険を感じるくらいすごまれるのにも慣れていた。にこにことレト先輩の次の言葉を待つ。しばし沈黙が流れた。
レト先輩が無言で睨んでくる。人間を刺殺できそうな、鮮血みたいに真っ赤な眼。顔が整っているから余計に目つきの悪さが際立ち、不機嫌を表す表情筋以外は死滅していそうだなぁ、ははは、とおかしくてわたしはすごまれながらちょっと笑ってしまった。
暴力はやめろとか相手は十六の女の子だぞとか非戦闘職員への暴力はうんぬんかんぬん班長さんをはじめとした犯罪課の人たちが慌てふためいて怒鳴っているのが聞こえてくるけど当のわたし本人がケロッとしていた。レト先輩を両側から取り押さえようとしていた犯罪課をわたしが「大丈夫ですから」制した。
レト先輩はちらりとわたしが昨夜刺された脇腹あたりに目を向け、鋭く吐き捨てる。
「……迷惑だ」
「そうですかぁ? わたし、レト先輩に特段迷惑行為をしたとはおもっていないんですけど」
「非戦闘職員の勝手な言動はこちらが責任を負わされる。迷惑だ」
「ああなんだ、そんなことですかあ」
わたしは両手を少しあげてひらひらさせた。
「病棟で〈治癒〉してもらったので完治していますよ。わたしが現場で急に倒れて戦闘職員のかたがたのせいにされることはないです」
先輩が鼻を鳴らした。
「はっ――つまらない嘘を。ノアトの治療方針は熟知している」
怪我の治療に一番使われる魔法は〈修復〉だ。五分前までの怪我にしか効かないのでその次に行われるのが〈治癒〉で、これは些細なかすり傷一つにも回復痛という激痛が伴う。深い刺し傷であれば言わずもがな、アナログ治療のほうが時間はかかるけれど推奨されるのだ。
「あいつが小娘に〈治癒〉を強行することは断じて無い」
「〈治癒〉の同意書を書いて医療課課長にこのままでは仕事ができませんって直接渡しに行ったら理解してもらえて、そのあとラクロワ先生に〈治癒〉を受けました」
平然と種明かしをするとまわりから驚きの声があがる。
自分のこの顔は最大の武器だ。戦えない非力なわたしはそれを自覚している。なのでラクロワ先生より偉い人に直談判しに行った。
レト先輩がわたしのシャツを乱暴につかみあげていた手をすっと離す。もう怒っていないらしい。
「……ならいい。とはいえ、人の頭越しに事を進めるのは感心しないな。そのうちノアトに見捨てられるぞ」
そりゃあそうだった。医療課課長から意に反する命令を突然くだされたラクロワ先生はさぞ気分を害したはずだ。
すっかり怒りの引いたレト先輩を見上げた。入局初日、無理を言って現場に連れていってもらって、レト先輩にあっさりと内面を見抜かれたことをおもいだす。わたしが人に嫌われるのをこわがっているって言い当てたレト先輩の、基本的に人間に対して無関心を貫こうとして不成功になっているところ、このやりかたでは嫌われてしまうぞとわざわざ忠告してくれるところに、なんとも言えない感情がわいた。
わたしはしらばっくれることにした。
「えっ、ラクロワ先生に見捨てられるって、なんでですか――」
数秒呆然としたのち目に涙を浮かべてうつむいてみせる。ざわり、周囲の空気が変わるのを肌で感じた。
「ラクロワ先生、怒っちゃったでしょうか……わたし、だって、――どうしても班長さんの捜査の話を聞きたくて……」
肩を落としたわたしのまわりで班長さんが「先生には説明しておいてあげるから」とかほかの犯罪課も「仕事熱心」「若いんだし」とかいろいろフォローしてくれる。頻度に気をつけなければならないが新入職員のうちは「知らなかった」と泣けば多少は無理がきく。解っていてやったのだから。
うつむいたあとに自分の顔からずるずる表情が抜け落ちるのを自嘲気味に認識しながら、わたしは能面のような無表情を慎重に前髪で隠して足元を見つめていた。
ラクロワ先生が執行課事務室にやってきたときには犯罪課の心優しい男性陣に慰められてあたたかいココアを飲みつつ捜査の話を横で聞いていて、いつも以上にキレッキレの毒舌を大量に披露するラクロワ先生へ「大怪我をした仕事熱心な新入職員が粗暴な執行人に泣くまで暴力をふるわれたがそれでもなお果敢に仕事をしている」という美談が伝えることとなった。
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