2-14
開けられた窓から春の浮ついた風が遠慮がちに吹いて、カーテンが気紛れに膨らんだりしぼんだり静止したりする。夕陽は人間社会を焦がすことに飽いて夜に空をほとんど明け渡し、此処が何階なのかは判然としないけど、建物も人も草木も見えない四角い窓枠の範囲をまだらな雲が白々しく流されていく。
病室の壁や天井はすべてあたたかな清潔さを主張する薄桃色で、それは過剰ともおもえるほど恩着せがましく「患者を気遣っています」的なパフォーマンスに見えて、なんだかわたしにとっては居心地が悪かった。罪悪感に胸が詰まる。わたしみたいな恵まれて幸せな人間が患者として人に気遣ってもらう立場になっていることが詐欺罪のようだった。
病院は嫌いだ。
先輩が断りもなく煙草をポケットから取りだして咥えた。断りを入れてももちろん吸っちゃ駄目だとおもうけど。病室だもん。
「先輩、喘息持ちなんですから煙草やめたほうがいいですよ?」
「断る」
断られた。
「病室なんですけど」
「嫌ならあんたが息を止めろ」
うっわ。嫌な奴すぎて逆に感心する。
それでも〈分煙〉をかけろとは言ってこないあたりが先輩らしいなとおもった。この人が自分から頼みごとをするほど気を許しているのはわたしの知っている限りラクロワ先生くらいだ。
「わたしは煙草の匂い嫌いじゃないんですけど、お医者さんとか看護師さんとかに怒られません?」
「知るか」
憮然としている。
「なにもしなくてもノアトはいつも怒っているだろ」
ラクロワ先生の名が出たのでこの病室は機構内なのだと判った。
中途半端に開いていた窓を先輩が乱暴にもうちょっと押し開き、なにげに毎日ちゃんと持ち歩いているっぽいひらべったい携帯灰皿を窓際に広げて立てかけると、あのアナログのライターをカチリと鳴らす。深く吸いこんで窓のほうにゆったりと吐く。吸って、吐く。数回。
「……あんたがどこまで覚えているかは不明だが」
わたしは慌てて居住まいを正そうとした。上半身を起こす前に先輩が寝てろって感じで不機嫌そうに軽く手を振ったので枕に後頭部を戻した。
「あいつはあんたを切りつけたあと、奇形の天使殺人事件の犯人は自分だと自供めいたことをほざいた。その時点で俺は把握していなかったが、彼は例の監督の関係者で、定期的に性行為のために会っているうちの一名だそうだ。あんたが被害者の遺体と映画との関連に気がついたおかげで昨日のうちに犯罪課が周辺人物を調べ、すでに目をつけていたらしい」
「えっ、そうなんですか」
びっくりして聞き返すと溜め息が返ってきた。
「……執行課はあくまで執行が業務で、捜査内容の把握は義務じゃないわけだが、必要なときにこころおきなく執行できるよう、捜査権はある。捜査内容は訊けば常時共有してもらえ、首を突っこんで犯罪課に意見する権限も持つ。俺は興味が無いからいちいち訊かないけれども、あんたは気になるならこまめに詳細を問い合わせておけよ」
「え、っと、でも……」
それって犯罪課の人たちに迷惑じゃないかな、と瞬時に不安感をいだいたわたしを見透かすように、先輩がちいさく舌打ちした。
「犯罪課にしつこくつきまとう執行官はいくらでもいるぞ。情報課や防諜課も四六時中執行官の質問責めにつきあっていると聞くし。執行官が納得しないことには機構職員の安全は保証されない。あんたも執行課の一員である以上、階級にかかわらず機構中から親切にしてもらえるのだから、役得だろ」
そういうものなんだろうか。
説明されれば得心がいくのだけど、しかしわたしは輪郭の無い恐怖めいた感情が徐々にわきあがってくるのを感じた。
――いざというときは貴方が必ず殺人を犯してください。そのために日頃から最大限親切にいたしますから。
高校三年生のときわたしは成績優秀者として機構職員の求人へ応募して、あっさり内定がでた。担任先生は飛びあがらんばかりに大興奮だった。校長先生がママを呼びだして「我が校始まって以来の秀才」と褒めそやし、地方新聞が高校生の快挙として取材を申しこんできた。
魔法管理機構。世界各国からエリートが集結し、〈
白いだけ、明るいだけ、正しいだけの一面的な物事なんてこの世には無いんだって身に沁みて知っていたはずだったのに、わたしはまだ解っていなかった、そのことに愕然として、自分に対して深い落胆と軽蔑を覚えた。
レト先輩はわたしの様子に頓着しないで喘息の吸入器を吸いこみ、四本目の煙草に火をつけた。
「話を戻す。昨夜、犯罪課が捜査中だったセフレがわざわざ機構に出向いてきた。犯人だと騒ぎつつな。傷害罪で逮捕し、取り調べをしたいところではあった」
そういえば珍しくレト先輩が長々と喋っていて気味悪いなあと気づいた。そしたらふと言葉が途切れた。煙草の先っちょの灰が長くなって落っこちそうになっている。先輩がまっすぐにわたしを見据えた。緊張する。
「――あんたのせいで殺さざるを得なかった」
「えっ……」
なにを言われたのか理解ができなかった。
血の気が引いた。
「そうだろ。あんたのせいだ。反省し、改めたほうがいい。異動も検討するべきかもな。俺が言うまでもなくまわりから話が出るかもしれない」
わたしの、せい?
遺体の消えない非墓無しの男を、わたしのせいで先輩が殺す羽目になった――?
ほろ苦いような香ばしいような有害な煙の匂いがかすかにベッドまでただよってくる。
「あいつは両手を封じられて魔法が使えず、魔力の要らない銃を使おうとした。ただのアナログの銃弾なんか、〈結界〉で充分対応できるだろ。しかも魔法で装填でもしなけりゃあのサイズの拳銃は数発で弾切れだ。ガキでも知っている。当然あんたもそのくらい了解済みのはずだ。あんたはあの場で自分自身に〈結界〉をするべきだったんだ」
天を貫く堅牢な超高層ビルの足元に倒れ伏し、侵入者と執行官が戦闘を繰り広げていた夜のことをおもいだした。肌がひりついて呼吸さえ自由にすることがはばかられる緊張感。脇腹の濡れた熱と、地面のざらついた不快感と、全身から体温が流れだして消えていく感覚。銅像のように立ち並んだ職員たち。両手を撃たれ切りつけられたパーカー男。血。握られた拳銃。
黒々とした銃口がレト先輩に向いて、銅像たちは微動だにしなくて、先輩の、からだに無理を強いる戦いかたをしたために反応が遅れた先輩の、その斜めに傾いたわたしの視界からはっきりと見えた、表情。
――銅像たちとわたしが各自で〈結界〉によって銃弾を防いだとして、じゃあ、先輩は。
「言っておく。あんたは、執行課に向かない種類の人間だ」
――だから、昨日のあれは生きていない。殺した。
――昨日の男の人は遺体が消えましたか?
――いいや。
「執行課を辞めてどこかよその課へ行け。いいな」
昨日の夜、銃口を前に反応が遅れたレト先輩の。
その血だらけになった端整な顔立ちのうえに、ぽっかりと浮かぶ。
諦め。
安心したみたいなおだやかなほほえみをたたえ。
試しに足掻いてみることすらぜんぜんしないまま。
ふわりと両目を閉じて。
そして。
「前にあんたは殉職したいと言っていたが、職場は人間がくだらない理由づけをして自殺する場所じゃない。執行課を辞めろ」
素っ気なく言い捨てて、レト先輩は病室を出ていった。
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