2-10

       ◆


 泣き声が聞こえた。聞いていると胸が張り裂けるような引きつった声だ。嗚咽を押し殺そうと息まで止めて、生物としておかしな呼吸音をたてながら、左手で目をこする。涙の感触が顔中にぬるぬる貼りついている。ああ。泣いているのは自分だ。唐突に判る。


 わたしはカラフルだった。


 晴れた正午すぎの陽のひかりが、フローリングの1Kをやわらかく照らす。粉にお湯を溶かすだけのコーンスープとレトルトのミートソースパスタが子どもっぽい無邪気な香りをまき散らして床に散乱している。頭上から獣の咆哮じみた甲高い激昂が耳を貫く。オレンジジュースがぶちまけられ、ガラスのコップが砕け散る。


 泣くことは許可されていなかった。座りこんだまま冷たいフローリングから温度をコピーしていく。凍れ。凍れ。心臓の真ん中を凍りつかせるために電熱性の右手でフローリングへ触れる。吸いあげて、凍れ。そうすることが世界で一番正しい。


 〈修復〉は例外無く五分間しか効かない魔法である、と定められているので、割れたガラスコップを直すなら早くしないと駄目なのになあと考える。悠長に。


 ドレッシングでべちゃべちゃになった千切りキャベツが天から降りそそいだ。


 痛くはない。ちょっとこわいだけ。


 ぶちぶちっと束で髪の毛が引き抜かれ、投げ捨てられた。


 痛くはない。


 サラダが乗っかっていたプラスティックの皿が頭に幾度も振りおろされた。


 痛くはない。


 あっ。


 皿がすべって勢いよく飛んでいった。ママはしかたなく手を使いだした。


 がすっ。がすっ。熱。がすっ。凍る。がすっ。がすっ。がすっ。ママが触ったわたしの腕とか頬とかふとももとかが赤とか青とか紫とかの色に染まって、くるくるりカラフルになる。痛くはない。がすっ。音がちょっと大袈裟なだけ。


 もう痛みなんて感じない。


 この頃、わたしは毎日カラフルだった。


 パパと、ママと、お兄ちゃんと、わたし、四人家族はママの手作りご飯を必ずいつも一緒に食べたけど、わたしが四歳か五歳くらいのときにママとわたしだけになって、狭い1Kに住んだ。そしてママは豹変した。


 がすっ。


 ママ、ガラスコップが直らなくなっちゃうよ。あと二分。


 がすっ。


 わたしには正解が解らない。


 がすっ。


 ママがテーブルの上の魔動式時計を振り返った。


 がすっ。


 あと一分。


 がすっ。


 〈修復〉は例外無く五分間しか効かない。『全書』に書いてある魔法はどれも少しずつ不便な制限がかかっていて、魔法によって条件の内容は異なるけど、完全に完璧な万能魔法は存在しないってことになっていた。何故なら、万能になればなるほど魔力をいっぱい消費するから。使った人が魔力欠乏症で死んじゃうから。


 〈修復〉は五分間という制限がかかることで術者を死なせることなく使用が可能になった。


 あと三十秒。


 がすっ。


 またママが時計を振り返った。


 〈修復〉の魔法陣が広がって、ママがかけるとき特有の音がきらきら鳴り、鮮やかに発動した。痛くはない。ぜんぶほんとのことじゃないみたい。夢のなかをただよっている。


 〈修復〉が終わってもガラスコップは引き続き割れた状態で床に落ちていた。時間切れだった。割れてから五分以上経ってしまったから、もう魔法ではもとに戻せなくなった。


 ママが〈修復〉した対象はわたしだった。わたしの色を肌色に戻してこの約五分間を無かったことにしたのだ。見あげるとママの目は据わっていた。


 殺したくなるから出ていけ、と低くママの喉が鳴った。


 痛くはない。


 どうしてだろうと考えた。


 ママはどうしてムメを嫌いになっちゃったんだろう?


 あとから考えると、ママのこういう時期はほんの一年にも満たなかった。でも当時は永遠のようなさみしさだった。ご飯を作ってくれなくなり、髪の毛を結んでくれなくなり、同じ布団で寝てくれなくなり、名前を呼んでくれなくなり、誕生日をスルーされた。


 ママが帰ってこない真夜中、わずかでも音がほしくて独りテレビをつけ、泣きながらアニメを観た。


 毎晩深夜に放送されていた当時流行りのスパイアニメだった。記憶技術者、という架空の職業のイケメンスパイが、本来は人権侵害で重罪になる尋問魔法をこっそりと用いて、悪者の記憶から悪巧みを探りだすべく暗躍し、世界の危機を救う。


 わたしはまだ幼稚園児だった。わたしはそのアニメにすがった。テレビは無料の騒音だからさみしいときはつけてしまうんだけれど、無料のむなしさでもあるので用法用量に気をつけたほうがいい。そういう考えにいたらないほどわたしは子どもだった。


 夢中になった。ママの記憶をちょっぴり覗いてみようと興奮した。


 他者の記憶へ勝手に魔法でアクセスすることは深刻な人権侵害だ。もちろん『魔法陣百科全書』に載っているわけがない。


 魔法は陣の数十万文字のうちたった一文字を間違えるだけでいのちを落とす危険な代物だった。『全書』に無い魔法を作りだすなんて言語道断で、しかも、新しく魔法を創作したいなら十八歳になるまで猛勉強をしつつ待ち、魔法創作免許の超難関資格試験にパスしなければならない。


 冗談じゃないとおもった。待てるわけ、なくない? 一刻も早く前のママに戻ってほしかった。ママは〈修復〉されるべきだ。五歳の頃にはすでにわたしの魔法理解力は普通じゃなくて、周囲の大人たちは気づいていないようだったけども、わたしの目にはクラスメートも学校の先生もみんなみんな簡単な魔法さえ理解できない赤ちゃんに見えたから、自分が本気をだせばいけると感じた。


 またママに愛されたかった。


 そのためにわたしがなにを努力すればいいのか知りたかった。


 がすっ。がすっ。無かったことにされる約五分間は数えきれないほど繰り返され、日常になった。


 痛くはなかった。


 わたしは無免許の創作魔法で違法尋問を作りあげた。


 まだ六歳にもなっていなかった。


 ――走馬灯を見ている十六歳のわたしが、遠くで悲鳴をあげている。やめて。お願い。止まって。


 聞いていると胸が張り裂けるような引きつった声だ。嗚咽を押し殺そうと息まで止めて、生物としておかしな呼吸音をたてながら止まって、止まって止まって止まってと泣く。


 ――次の誕生日をもスルーされることなんて考えたくなかったわたしは、ある夜、キッチンに放られた自分の布団から這いでるとママのベッドに近づいた。


 ママはぐっすり眠っていた。


 わたしは自信を持ってママに違法尋問を発動した。


 ――やめて! 止まって、お願いだから……!


 熱。おなかが熱い。黒っぽい液体でからだがぬめっている。一五〇建ての機構中央局が堅牢に天を貫く、春の二十一時。


 石畳のうえで脇腹をぼうっと押さえて倒れたわたしの視界は、不自然に斜めに傾いていて、暗くて、鉄の臭いと寒さが充満していた。見慣れた戦闘服の背中とごついブーツの細部が見えた。


 大柄なパーカー男とレト先輩が向かいあっている。わたしはあえぐ。


「やめて……止まって、お願い――先輩っ……」


 レト先輩はパーカー男を殺そうとしていた。

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