2-09

「電話に出なかったから心配したのよ? まさか、もう残業してるんじゃないでしょうね?」


「えっ、えっとママ、違うよ、ぜんっぜん残業じゃないよ! ちょっとご飯作ってて手が離せなくて……」


「そう? ならいいけど。だってあんた入ってまだ二週間じゃない。機構は忙しくて残業ばかりだって聞くし、新人もこき使うんでしょ? なにかあったらすぐうちに帰ってきなさい」


「う、うん。ありがと、ママ」


 わたしは電話を切ってトイレのドアからするりとからだを押しだした。事務室内のトイレだからドアのすぐあっち側はレト先輩とラクロワ先生がいるデスクで、現代社会の精神的危機を延々説明していた番組はとうに終わってアホっぽいバラエティが垂れ流しになるなか、二人がすっかり暗い一一〇階の黒塗りの窓を背にして額を寄せあっているところにわたしは躍りでると、努めて明るく駄々をこねた。


「あのですね、さっきの続きですけど、続けますよ? この一時間弱、再三言ってますが、犯行に使われた魔法の特徴を陣紋検索したら、たしかに指紋みたく個人を識別できるとは言ってもですね、もっと被害者の身元調査や人間関係の洗いだし、アリバイ確認、犯行動機の捜査とかをするべきですよ!」


 つけっぱなしのテレビ、完成なんか今日じゃなくてもいい書類の山、奇形の天使事件の詳細を映しだす空中ディスプレイ、冷めた飲みかけの珈琲。二人が顔をあげてわたしを注視しているので、仁王立ちで胸を張った。まあ、胸なんか絶壁ですけど。いやそれは今はどうでもいい。


 わたしはここぞとばかりに力説した。


「よく考えてください、検索するだけで事件が解決するなんておかしいですよ! 犯人が陣紋を普段の日常生活と変えたら途端に分からなくなるじゃないですか!? 証拠とかもっともっと調べて、陣紋以外の方法で割りだすほうがいいはずです、でしょ?」


 熱くまくしたてるわたしに反して至極冷静なレト先輩が短く言い放った。


「邪魔だ。失せろ」


 にべもない。――っていうか、


「はあー!? 都合悪いからって突然失せろってなんなんです!? つい今しがた一緒に証拠見てたのに、いきなり態度変わりすぎですよ、こっっっわ! そんなに動機を考えるのめんどくさいですか!? あなたはそれでも機構職員なんですかっ!? わたしは失せませんよ、地獄の果てまでついていきますから――」


「陣紋は偽れない。偽りようがない。アナログの顔面と同様だ。多少ダイエットをしても骨格は変わらない。以上。古典推理小説オタクは家で寝てろ」


 この野郎……!


 解ってはいる。わたしは聴音士だ。魔法の専門家なのだ。陣紋は一人一人固有のもので、生まれてから死ぬまでずっと同じで、意図して変えたりできるわけがない。よく知っている。


 でも、でもだよ、実際に範囲を「犯行時生存していた全人類」で指定したって検索結果に出てこないんだから、仕方なくない?


 そのうえ、「奇形の天使」には常識外れの魔法が大量にかけられていた。魔力を通常の何倍も消費しながら非効率的な不協和音を作りだし、わざとらしく装飾音を多用して、雑音にまみれた独りよがりの魔法を組みあげているんだよ。


 その内容も意味不明だ。あえて被害者をふとらせたり、ブスに見えるよう細工したり、飛べもしないぐちゃぐちゃの羽を直接神経にくくりつけて、被害者に羽を動かさせたり、そういうのって普段の陣紋とは違うふうを装って、別人のフリをするための悪足掻きなんじゃないかなってわたしはおもう。


 犯人は、自分が疑われないように魔法をたくさんかけた。そして今のところ成果は充分だ。レト先輩が怠惰なせいで、犯人の思惑どおりになっちゃっている。


 帰れ一点張りのレト先輩に失望し、キッとラクロワ先生へ視線を突き刺したら、先生はあんぐりと口を開けてエメラルドグリーンの目を見開いていた。


「うっ……」


 わたしはちょっとひるんだ。


「……ラ、ラクロワ先生はどうおもいますか!?」


 先生もちょっとひるんだ。


 しばし沈黙が流れた。


「…………ええ、そうですね、俺はまず、大変驚いております」


 深く頷いて眼鏡をくいと押しあげる。誰の趣味か知らないけどカチッカチッと非魔法の掛け時計が時間を刻む音がして、あんな高価なものなんで事務室に置いてあるんだが謎だけれど、もうすぐ二十一時になろうとしていますよと古風な針が指し示していた。


「えー……、ジェトゥエさんは、俺が認識していたよりもものをはっきりとおっしゃるかたなのですね? 常日頃から控えめで忠実な印象を受けておりましたが」


「へっ?」


 先生は歯切れの悪い言いかたをしつつ大人な微笑を浮かべ、わたしに再度頷いてみせた。


「もちろん、自由に振る舞っていただいてよろしいのですよ。俺が個人的に驚いているだけですから。特殊行政部の皆様からうかがったあなたに関する噂話や、俺自身があなたの様子を拝見していて、従順すぎやしないだろうかと少々懸念しておりました。つぶれてしまうのではないかと。しかし、本日あなたの新たな一面を見せていただき、俺は嬉しく感じております」


 わたしは。


 ショックを受けていた。


「ヴィーノが野生動物の糞尿をさらに発酵させたような素晴らしい性格をしておりますから、ジェトゥエさんを案じていたのですよ。ですよね、糞尿?」


「……いい笑顔だな。立て。撃つ」


 あっはっはっは、と親しげに笑う先生と憮然とした先輩を視界にとらえながらも、わたしには全身の感覚が無い。現実、が急速にどっか遠くにすっ飛んでいってしまって、残りカスだけが地べたに埃とまぜこぜで落っこちている。つまんない映画のあらすじを読もうとして何度も目がすべるのに似ている。


 プールの底から外界の音を聞き取ろうとするように、すべてがくぐもって、濡れそぼって、ぐわんぐわん波打って、原型をなくす。


 ――ものをはっきりとおっしゃるかたなのですね?


 笑わなければならない。


 従順でいなければならない。


 社会に服従し、笑みを絶やさず、少しでも「需要がある人間」のフリをして、演じて、演じて演じて演じて、演じて、おそろしい事実が、わたしは生まれてくる価値も無かったゴミであるというどうしようもない事実が、明るみに出てしまわぬよう。


 仮面を接着していなくちゃいけない。


 義務、だ。


 わたしは怠ったんだ――。


「ジェトゥエさんを見守るために俺は昼休みのたびにこちらへお邪魔していたのですが、ええ、安心いたしました。ですが油断は禁物です。我が親愛なる糞尿は、じつに筋金入りの強烈な香りをまき散らす害悪の王者でございます。なにかあればお気軽に俺までご相談くださいね」


 わたしは正しく笑顔を保てていただろうか。


 ラクロワ先生がわたしを見つめ返してうんうんと頷いている。古風な時計が二十一時を告げる。窓の闇は濃さを増す。奇形の天使事件について証拠品をあれこれ表示していた空中ディスプレイは厚さ数ミリのひかりをわたしたちに向けて待機している。


 レト先輩がものすごいしかめっ面で抜いた拳銃の銃口を、ラクロワ先生は大胆に手で塞ぎ、ついでって感じでつけ足した。


「ああそう言えば、こちらの下水野郎が帰れと申しましたのは、あなたが邪魔だからではありませんよ。翻訳はお任せください。こころの準備はよろしいですか?」


 自分がなんと返事をしたのか自分でも分からなかった。なにもかもが遠くなっていた。


「いきますよ? いいですね? では、翻訳スタートです。『一緒に事件について話すのは楽しいんだけど、お母さんを心配させてしまうから、早めに帰って休んでほしいな♡』という意味でございます」


 どうやったら機嫌の悪さを顔だけでそこまで表現できるのか分からないくらい渋面のレト先輩を、先生がぽんぽん叩いた。


「先ほどジェトゥエさんお手洗いのドア付近でお母様と電話をしておりましたでしょう。残業がどうのとおっしゃっていましたね。〈防音〉をかけ忘れていましたよ。……あなたの『推理』については明日改めてお聞きしたく存じます」


 わたしはのろのろと荷物をまとめた。超高層ビルをでて肌寒い夜のなか一人で駅を目指して歩きだす。月明かりに照らされて、機構中央局の一五〇建てが堅牢に天を貫いているのがうかがえる。


 あっというまの出来事だった。わたしは現実感を喪失していた。輪郭が溶けかけた憂鬱越しに、仮面のかたちのことにのみ意識を捧げていた。


 なんだかおなかが熱いなとおもったら自分の脇腹から嘘みたいに血がどばどば出ていて、黒っぽいパーカーを着た男が――たぶん男性だとおもうんだけど、フードを鼻のあたりまでぐいっとかぶった大柄な人影が、わたしの目の前で刃物を再び振りあげていて、頭上のはるか遠くから「ジェトゥエ――!」とレト先輩の叫び声がして、ははは、ガラにもなくおおきい声だしたりするんだな、とおもった。

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