間奏 1-7

 ノアトがわずか十歳にして医療魔法全分野の医師免許を持つ天才たりえたのは、生得的に優れた頭脳があり、習得的に並々ならぬ努力をしていたからだった。


 彼は医学書を毎晩頭にダウンロードした。


 毎晩その魔法を数百回発動し、つねに深刻な魔力欠乏症だったので、障害者の僕と同様に日常生活でなんの魔法も使うことができなかった。


 若者のあいだで書籍のテキストデータを数秒で脳内に入れる手軽な〈読書〉が流行っていたが、一度で暗記できるわけではないし、一言一句を瞬時に理解できなければ記憶・思考・人格が破壊されるため、やったとしてもせいぜい絵本程度、大学受験間近の学生だって勉強法としては取り入れない方法だった。


 毎晩、毎晩、彼はありとあらゆる医学書を〈読み〉続けた。


 何冊も、何冊も、暗記するまで何回でもダウンロードし続けた。


 優秀な頭脳は毎回むちゃくちゃな読書の解析に奇跡のように耐え抜き、酷使され、疲弊し続けた。


 彼は頭がいいだけでなく魔法のセンスもあった。安全な『魔法陣百科全書』を放りだして危険な創作魔法を広げ、教わるまでもなくからだで知っていた感覚のみで、生死の狭間を毎晩綱渡りし続けた。


 自身なんかどうなってもいいと叫ぶみたいな。


 かなしい執念で、自殺寸前の自傷行為を夜のたびに繰り返した。


「……魔力の」


 姉御がかたく握ったこぶしを震わせて言う。


「あのノアトくんが、魔力の操作をミスって魔法暴走だってさ。あと一歩で死んでたそうじゃん。信じられるかい? そのへんの大人なんか目じゃないくらいの――なんなら機構の戦闘職員だって顔負けの、あの魔力操作でよ」


 薄桃色の廊下が暖色の照明を冷たく含んだまま左右にずうんと伸びて、静かに僕たちを窒息させようとしてくる感じがした。見慣れて見飽きた病棟の一角は他人行儀に見舞客を拒む。閉ざされた個室のドアを睨みつけつつ、姉御が食いしばった歯のあいだからささやきを漏らす。


「……ったく、どいつも、こいつも……!」


 ドアが薄く開いて壮年の担当医が出てくるとすぐに後ろ手でドアを閉めた。床に縮こまって膝を抱えていた僕には気がつかず、立っていた半泣きの姉御と無表情のグレイを順繰りに見つめて、


「もう心配は要りませんよ。つい数分前に意識が戻りました。誰とも面会はしたくないとのことですので今夜はお帰りください。安心してくださいね」


「承知した」


「ヤブがつべこべ言ってねえで、どけ!」


 事務的な報告と平板な了承と鮮烈な怒号が重なって廊下に響くなか、僕はうずくまっていた観葉植物の陰からこっそりと起きあがって病室へ滑りこんだ。


 月明かりが見えた。ガラスを隔てたあちら側で一五〇階建ての超高層ビルが窓を無機質な灰色に塗りつぶし、月のみがぽつん、抗っていた。


 薄暗い個室には寝台が一つだけ置かれ、十歳にしては長身のふくらみが仰向けに横たわり、頭部と両腕を布団の外に投げだしている。医療魔法には限界があるので、治しきれなかったあれこれを治療する点滴の管が布団を這っていて、其処からおぼろげな視線で天井を眺め、ノアトは僕に見向きもせずつぶやいた。


「先月の今日だったんだよ」


 ――もうすぐさ、初めての月命日なんだ。


 彼と喧嘩して口を利かなくなった日のことが急速に思いだされてなんと返せばいいのか分からなくなった。所在なく突っ立っているしかなくて、たった一つの寝台と灰色の窓を微動だにせず見ていた。


「夜は家にいたことがなかった。来る日も来る日も夜どおし路地裏に立っててよ、日が昇る頃に少ない金を握って帰ってくるんだ。でも、俺を殴ったことはなかった。死ねとか生まなきゃよかったとか怒鳴ることもなかった。毎日」


 ――笑えるだろ?


 ――クズだよ。


 ――ははは。


「毎日仕事に行くときと帰ってきたときに俺を抱きしめた。額にキスをして、生まれてきてくれてありがとうと言った。俺のメシと医学書を買う金のためにぼろぼろになって働いた。いっぱい食べて、やりたい勉強をしなさい、ってのが口癖だった。てめえなら解るだろ」


 ――死んで当然のクズだ。


「世間がどう評価しようと俺にとっては、母さん、だったんだ……」


 何十階なのか分からないけれど確実に高いところにある病室の窓の外で、強い風が吹いて、おもむろに雲が月を隠した。


 ――自殺だぜ。ははは、クズだよ。笑えるだろ?


「なんになるんだ。医学なんか学んでなんになるんだ」


 馬小屋みてえなスラム街のワンルームで。


 夜中急にPTPシートの薬を片っ端からむき始めて。


 ヨーグルトにじゃーらじゃーらぶっこんで。


「俺が殺したのに今さら医者になったって」


 自分に〈吐き気どめ〉をかけて。


 かけまくって魔力使い果たして。


 〈吐き気どめ〉で使い果たすとか何十回かけたんだか知らねえけどさ。


「なんになるんだよ」


 ひたすら何時間も、俺の目の前で不味そうに食ってた。


「てめえなら解るだろ、なあ――ヴィーノ」


「解りません」


「あ……?」


 雲がどかされて月明かりが世界に抗い始める。支配者のように呪いのように重々しく天を貫く灰色の超高層ビルを、ちっぽけな月光が照らしだす。


「残念ながら理解しかねます、ノアト。申し訳ございませんが貴方のお母様はクズです。揺るぎない事実として受け止めていただく必要があるかと思慮いたします」


「て、めえ」


「貴方のお母様は明確な過ちを犯しました。人としてやってはならないことを平然と犯す救いようのないクズです。頭のおかしなかただったのですね。亡くなるべくして亡くなったのであり、もはやどうにもしようがありません。害虫ですね」


「なんだと、ヴィーノ貴様――」


「害虫と離れられてよかったですね、ノアト」


「てめえの母親や先生のほうがよっぽどひでえだろ、いまだにママ迎えにこねえんだろ? ヴィーノのくせにふざけんな――」


「僕はふざけていません。貴方こそどうかしていますよ。死んで当然の害虫が好きなのですか?」


 僕は夢中だった。初めてノアトを友だちだとおもった。円滑な人間関係にはパフォーマンスが推奨される場面もあるというグレイの台詞にこのとき僕は全面的に同意だった。大昔の故障したテープレコーダーみたいに――物が壊れにくい魔法社会にはあまりいい例えがない――同じ言葉をリピート再生した。


 クズ。


 クズ。


 クズ。


 クズなのは相手であってだから貴方のほうは無罪ですと、それだけは口にださないでひたすらノアトの母親を侮辱した。


       ◆


 きっかけは覚えていない。


「貴方の品性の無い言葉を聞くたびに、いったいどのような遺伝子を受け継ぐとこうなるのか考えさせられますね」


「……あぁ!? てめえが性病にまみれたアバズレの股から這いずり出たからって俺の母親を侮辱する権利はねえよ。第一、言語獲得とその選択・使用は生得的能力じゃねえ、習得的能力だ。てめえの脳味噌もママそっくりのオガクズか?」


 どうしようもないほどに僕たちはおんなじだった。暇さえあれば言い争いになったし、毎度きっかけなんか忘れるほど長々とやりあって、くだらない方向にヒートアップした。


「遺伝子どうのこうのって要は両親ならびに先祖への批判だろうがよ。死ね」


「貴方と同じ土俵に立ちたくはありませんが、言うのでしたら貴方のお母様だって自殺を――」


「あぁ!?」


 僕たちはたくさん喧嘩をしたけど、あれっきり暴力沙汰にはならなかった。片方は呆れるほど運動音痴で、片方は身体障害者で、おまけに二人とも魔法を使えない事情があった。


 ノアトの口の悪さは相変わらずで、僕の愛想笑いも相変わらずだ。


 習得したコミュニケーション能力のなかからどのやりかたを選択するかは、おおまかに分ければ生得的な性格と環境的要因が半々くらいだといわれている。


 性格も、能力も、人生も、半分程度は遺伝に影響されて、でも残りの半分は環境や自分の希望でいくらでも変えることができるらしい。


 なので僕たちは互いの愛する人をボロクソに批判して生きていくことにした。今この記憶を持つ僕たちにとって最大限の友情表現だった。


 今日も明日も明後日も姉御がため息まじりに僕たちの喧嘩を止めようとするだろう。グレイはいつもどおり遅刻してくるだろう。


 窓の外は、快晴だった。

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