間奏 1-6

 照明。つんとした油絵の具の匂い。震え。衣擦れ。低く抑揚の無い、しかし不思議とよく通るグレイの声。ひかり。その暖色。温度。


 僕は痛みを音読していた。外界の刺激のなにもかもを放棄して膝を抱えて羊水に覆われるみたいに聞こえないし見えない。ようやっと自分が自分に戻れた頃には、グレイの古めかしい機械式腕時計は時針がひとつ進んでいた。


 まわりが見えてきた。知らない女の子が凛と部屋の真ん中に立っていた。


 やわらかくふくらんだショートボブのプラチナブロンドが印象的な、容姿が整いすぎてかえって作りものじみた華奢な女の子だった。小学生か、中学生か、着ているものは一般的な制服だが、彼女の所作の端々に生まれながらの気品がただよっている。


 僕はわけが分からずグレイの横顔を見あげた。


 あたりまえだがグレイはなにも言わなかった。


 ……この男の部屋に子どもがいるという状況が異様だ。だって、グレイだよ? 始終無表情で黙りこくり、まともに会話に応じることはほぼなく、たまに口を開けば親しみが欠片も感じられない無愛想な口調で、相手に理解させる気があるかどうかもあやしい難解な話しかしない青年を、十歳かそこらの女の子がわざわざ訪ねてくるなんて、意味不明にもほどがある。


 女の子は堂々と歩みでた。「夜分遅くに申し訳ないですけれど」と形式的に入れられた断りは、彼女が日頃から他人に命令をくだし慣れている様子が感じられた。


「先ほどわたくしの誘拐未遂現場に居あわせたクォルフォア・Gさんでお間違いありませんね」


 まあ、そんなことで態度を変えるグレイではなかった。いつもどおり口をつぐんだまま視線だけで続きをうながす。女の子も物怖じせずに毅然としている。


 意味不明だ。


「わたくしはノクテリイ・Mと申します。ヒトロイドグループ代表取締役のあのノクテリイ家です。あぶなかったところを助けていただきありがとうございました。一点おうかがいします」


 あどけなさが残る女の子は制服のスカートの前に両手を行儀よくあわせ、数十センチの身長差も気にせず貫くような視線でグレイを睨みあげた。


「先ほどは何故あのような行動を取ったのですか」


「……ふむ。あのようなとはなんのことだ?」


「わたくしを助けてくださいましたが、それはいのちをかけなければできないことですか」


「ほう?」


「ノクテリイ家の護衛をはるかに凌駕する戦闘能力をお持ちなのに、何故犯罪者相手に『名乗り』を行ったんですか、とうかがっています」


「なるほど」


 グレイが目を細めた。僕は驚いていた。たしかに魔法社会では人に呪いをかけられないようにするため普通めったに自分のフルネームを名乗らないけれど、彼が息をするように誰彼構わず名乗りをするのは今に始まったことじゃなかった。たとえば僕との初対面のときもそうだったし、ノアトが「虚弱体質野郎」などと悪態をつく都度グレイはフルネームを名乗ってから呼びかたの訂正を求めている。


 だから、そんなことで一度会っただけの人物を訪ねて機構内の病棟にまでやってきた女の子の感情、小柄なからだの芯で燃えさかる意志に、僕は魅せられていた。


 どうでもよさそうにグレイが答えた。


「退屈しのぎのためだ」


「しのげていますか」


「ああ。おもいがけずな」


 女の子はひとつ頷くと「少々失礼いたします」断りというよりは命令を一文挟んで左手を伸ばし、ネクタイをつかんで引き寄せ、長身のグレイを屈ませて、そして、


 右手でおもいきり平手打ちした。


「わたくしの前で二度とやらないでください。そのたびに殴りますから」


「覚えておこう」


 女の子が退室してすぐに僕は居ても立ってもいられなくなった。感情に魅せられていた。美しいとおもった。紙の本にうずもれた病室はしんと静寂に包まれ、油絵の具と筆のかすかな音しかしない。僕は他人に迷惑をかけたくなかったけれど、先生とグレイの二人は僕がなにをしても迷惑がらないと知っていた。なので質問をした。


「あの、どうして戦えるのによけなかったのですか?」


「円滑な人間関係にはパフォーマンスが推奨される場面もあるからだ」


 即答だった。


 何事にも超然としている青年がこのときばかりは動揺していたのかもしれない。少し、投げやりなもの言いだった。


「円滑な……人間関係? グレイなのに……?」


「いい度胸だな紅玉」


「退屈しのぎというのは、えっと、ほんとうに退屈で名乗りをしているのですか? 殺されてしまう可能性があるのに?」


「やれるものならやってみろ」


「彼女に怒られて名乗りをやめる気にはなりましたか?」


「いいや」


「すごい剣幕でしたよ? また名乗りをしたら彼女は怒るのではありませんか?」


「無いな。彼女は数日中に私を忘れる」


「忘れる?」


「ああ。私の影の薄さは特筆に値する。魔法の四大原則、関係性の希薄化だ」


「僕はグレイを忘れていませんよ」


「頻繁に会うからな。それに、魔法を使えない者は所持する魔力量が減り、希薄化を起こしにくくなる」


 魔法の四大原則、関係性の希薄化。大量の魔力にさらされると人間の記憶はおのずと薄くなる。


 孤高の不死者の足元にはむせ返るほどの魔法陣が半径数メートルにひしめき、うごめき、常時発動し、自然の摂理に逆らって青年を何百年も生かし続けている。


「彼女に忘れられることを確信しているのに『覚えておこう』と言ったのはどのような心境ですか?」


「心境もなにも。私はもうろくしていないのでな」


「人々に忘れられながら長生きしなければならなくて、あえてインパクトがある名乗りをするのですか?」


 彼は答えなかった。


「グレイを覚えていられる障害者の僕が、歩きかたも文字の読みかたも箸の持ちかたもすべての記憶を消したら――貴方に、さみしいおもいをさせてしまいますか?」


 これにも彼は答えなかった。


 姉御がノックもせずに飛びこんできて「ノアトくんが瀕死状態でやばいんだってメールめっちゃ入れてんだろがよ! 見ろよばかども!」と叫んだのはこのときだった。

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