間奏 1-5

       ◆


 生まれて初めて人と喧嘩をしてから数日が経過していた。僕は医局に訪ねて行かなくなり、ノアトも医局にこもって出てこないかこの階の外に出ているかのどちらかだった。喧嘩以前はなにをするにもできるだけ一緒だったというのに、廊下ですれ違っても一瞥もくれず知らない人同士みたいに通り過ぎた。


 幼い医師はとにかく忙しく仕事に追われていた。落ち着いて考えれば、喧嘩したからって仕事が爆発的に増えるわけではないだろうから、今まで彼は僕と会うために時間をつとめて作っていたのであり、刺々しい言葉遣いや服装とは裏腹のなにかしらが僕に向けられていたはずで、強迫的に僕へ捧げずにはいられなかった数々の感情の行き場がなくなって、ノアトが計り知れないダメージを負ったのは当然のことだった。


 そして先生のことだけを生きる理由にしていた僕にとっては、このとき、ノアトとの絶交なぞなんのダメージでもなかったのだ。


 その夜も僕は紙の手帳を一冊かかえてグレイの病室をノックした。返答があるわけはないから「失礼いたします」と勝手にドアを開ける。


 付箋を何枚も挟みこんだ紙版本が床中に数百冊積まれている。アナログの筆記用具があちらこちらに散らばって放置され、寝台はまったく使われた形跡なく本に占領され、その隣でグレイは気だるげにパレットを持って描きかけのカンバスを眺めていた。


「グレイ、お邪魔いたします」


 会釈をして本の塔のあいだを縫い、僕用に空けられた机へ向かう。


 機構からの絶対条件として、毎晩寝る前に必ずグレイと会う決まりになっていた。


 グレイはだいたい書きものか読みものをしていて、適当に中断して記憶の整理や治療に関する魔法をかけてくれて、どうでもよさそうにもとの作業に戻る。僕はうたた寝をしたり日記を書いたり、ときには一方的に話したりもした。グレイは返事をくれないけど聞いていないわけではないらしく、何日も経ってからふとしたタイミングで僕の独り言に言及することがあった。


 心地よい沈黙のなかで二人、おのおの好きなことをして一時間程度過ごす。なんだか不思議な感じのする日課だ。このことが話題にのぼるたびにノアトは歳相応の無邪気な顔をした。


「虚弱体質死にぞこないクソグレイって、ぜってえ記憶技術者だよな」


「それは……どうなのでしょうね」


「ぜってえそうだろ。医者じゃねえのに記憶のことだけ俺でも分かんねえ魔法書きやがるし」


「しかし記憶技術者は……」


「実在したらかっけーだろ! な? だろ? なあ!」


 記憶技術者とは、映画や小説などによくでてくる架空の職業のことだった。魔法社会の情報戦で暗躍する違法尋問の専門家で、その存在をあらゆる国や組織に否定されながら、密かに難度の高い諜報活動をこなしているという設定だ。


 もちろんグレイ本人は記憶技術者だなんて名乗らなかったし、機構の誰もそうは言わなかったけれど、ノアトはこの話題になると傲慢な天才医師から一変して証拠探しに夢中な子どもになった。意外とそういう面もあるんだな、とおもったものだ。


 ――唯一生きたまま真珠先生から保護された貴重な被害者であるところの僕の記憶は、機構が喉から手が出るほど欲しがっているというのに、まだまだぜんぜんだめだめだった。


 切り落とされた利き腕はどうにもならず、〈供述書〉をはじめとした魔法全般が今後いっさい使えないことは確定し、それが無理なら情報提供を会話で試みるも、五歳から十歳までの監禁期間中の記憶は混乱をきわめ、いっこうに整理が進まない。他者が魔法で人の記憶を探るのはプライバシー侵害として大変な重罪だ。機構は事件についての記憶を被害者から合法的に得るすべがなかった。


 魔法による記憶侵害は違法であるだけでなく、技術的にも非常に高度だった。成功率が〇・〇一パーセント以下なのに、失敗すればかけたほうもかけられたほうも気が狂ってその後一生奇声をあげ続けることになる。その危険を顧みず技術を会得しようとし始めても、ちょっとやそっとの練習では身につかず、狂う恐怖に負けて諦めていく。


 記憶技術者なんかいない。


 ノアトがなんと言おうとそんな「魔法みたいな」魔法は実在しない。


 魔法は万能じゃ、ない。


 だから。せんせいはぼくがまもる。


 きおくをまもりぬく。


 つかまらないように。


 にげきれるまで。


 せんせい。


 ――――――ヴィーノくん、あたしもっとこのケーキ食べたい。きみのせいであたしは部屋から出ちゃいけない「たからもの」になったんだから、ヴィーノくん、きみが先生に殴られてケーキもらってきてよ。


 お城みたいにきらびやかな先生好みのシャンデリアに照らされて、ミイユお姉ちゃんがドス黒い声で吐き捨てた。そばかすの浮いた元気な田舎娘という感じのお姉ちゃんには、先生が支給する絹のドレスがちぐはぐだ。そのときドアが勢いよく蹴破られた。「魔法管理機構」のロゴが入った制服姿の大人たちがばたばたっと僕たち二人の部屋に踏みこみ、誰かが鋭く叫んだ。


 ――被害者二名を保護しました!


 ――――。


 本に埋まる病室で、グレイに勧められ最近始めた手書きの日記帳へ、代わり映えのない単調な今日を今日も綴りながら、気づいたときには例の発作に見舞われていた。息が荒くなり、声を押し殺そうと奇異な呼吸音が口から漏れて、全身が、痙攣する。


 あのお姉ちゃんは誰なんだろう。


 僕はほんとうに先生を愛していたのか。


 振りおろされる暴力の愛おしさ。


 先生と二人きりの幸福な五年間。


 恍惚とした絶対的な神様。


 愛に応えるためだったらなんでもした。


 僕は。


 先生を守るべきなのだろうか?


「紅玉」


「ぐ、れい、あの、あのお姉ちゃんは誰ですか、そばかすの、あれって、」


「……ふむ。彼女はドロシア・ミイユ、貴方が五歳の頃に近所に住んでいた少女だ。五年間貴方と同じ部屋につかまっていたが、機構によって保護されたのち――」


 変な音が聞こえた。うるさいなとおもったら、自分があげている悲鳴だった。


「……それほどに苦しいなら、紅玉、記憶を消してやろうか」


 きいあああああ。うああああああぐっうぅぅぅう。


「そんな顔をするな。現代魔法で記憶を下手にいじくることはできんが、消すだけならば簡単だ。魔法の四大原則、関係性の希薄化。大量の魔力にさらされると人間の記憶はおのずと薄くなる。自身の名もおもいだせぬくらい徹底的に、やってやろうか」


 何処か遠くで獣が吠えている。


「十歳なのだから、すべて忘れてしまってもいくらでも取り返しがきく。歩きかたも、文字の読みかたも、箸の持ちかたも、私が教え直してやるから」


 忘れてしまえたらどんなに楽だろう。


 グレイから初めて提案されたそれに僕はすがりたいとおもった。

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