間奏 1-3
◆
「ヴィーノてめえ、んなとこ入りこんでまた女みてえにピーピー泣いてんのかよ」
窓があった。一五〇階建ての無機質な灰色の超高層ビルが、ガラスを隔てたあちら側で雲を突き抜けてそそりたつ。よく見ると上空の風は結構な速さで雲を一方向に押し流していって、空が巨大なエネルギーでもってまるごとまあるく動いていくのに、灰色の直方体はこの世のなにものにも動じぬというように重々しく天を貫く。
世界の支配者のように。
呪いの、ように。
此処はあれが見えない窓がなくて、どれもかしこも無機質な灰色に空間を塗りつぶされ、見おろされて、息がつまった。
「おーい、ヴィーノ?」
深いエメラルドグリーンの瞳がずいと顔を覗きこんできた。僕は視線を逸らし、突っ伏した。
自分が何階にいるのか分からなかった。許可された行動範囲は病棟のこの階のみであり、此処が魔法管理機構のなかの何処にあたるのか把握ができないのだ。
入院している個室、徒歩二分くらいの談話室、同じ階のグレイの病室、ノアトが詰めている狭苦しい医局、薄桃色の廊下と、薄桃色の壁と、薄桃色の天井、十歳の、全方位。先生がいない無害で正しい将来。抜け殻の
僕は無音で泣いた。
廊下に点々と設置された観葉植物のうちの一つ、ゴミ箱と隣接した薄暗い隙間に僕は膝を抱えて座りこみ、震えながら泣いていた。
ひとけのない廊下で引き攣った呼吸音――奇異な泣き声が、存在を許されずに掻き消える。
昨日も一昨日もその前も、そうして明日も明後日も死ぬまで、とてもノアトに理解できる感情だとはおもわないから、なにを問われても声を押し殺した。ノアトは精神医学について専門外だったけど、医師なりに感じるところがあったのか、毎日何回も起こす僕の「発作」を過度にからかうことはなかった。
いつも必ずこの薄暗がりまで僕を見つけにきて、僕が動けそうであれば義手をつかんで引っぱっていく。でなければ「談話室で待っている」旨を乱暴な言葉遣いで告げてそっといなくなる。
だから、十一日目の夕方に突然ノアトが向かい合わせにあぐらをかいて座ったときは驚いたのだった。
「もうすぐさ、初めての月命日なんだ」
あっけらかんと彼が言い放った。
「自殺だぜ。ははは、クズだよ。笑えるだろ?」
初めて聞く話だった。わずか十歳にして医療魔法全分野の医師免許を持っていた天才児は、傲慢に他人を見くだす態度を包み隠そうとせず、僕は特にその他人筆頭だった。
分厚い
「オーバードーズでさ。薬なんか使うのは死ぬ気がないアホばっかだけど、あいつは違った。馬小屋みてえなスラム街のワンルームで、夜中急にPTPシートの薬を片っ端からむき始めて、ヨーグルトにじゃーらじゃーらぶっこんで、自分に〈吐き気どめ〉をかけて、かけまくって魔力使い果たして、〈吐き気どめ〉で使い果たすとか何十回かけたんだか知らねえけどさ、ひたすら何時間も、俺の目の前で不味そうに食ってた。そんなのが母親だぜ? 弱え馬鹿女」
苛烈な侮蔑が緑眼の深奥で燃えている。
「死んで当然のクズだ」
ノアトが弾けるように笑いだした。ひとけのない廊下に無遠慮な高笑いが響き渡って、僕はぎょっとした。膝のあいだにうずめていた顔をのろのろあげた。
目が合った。
「でも、ヴィーノはクズじゃねえ」
ガクンと視界が揺れた。肩をおもいっきり揺さぶられる。嫌がって身をよじるのに彼は離してくれなかった。
「なあ、あのなあ、てめえ。ヴィーノは死んで当然じゃあねえ奴なんだよ。黙りこくってないでなんとか言え。てめえの口は野郎の竿をしゃぶるしか能のねえスクラップかよ、ああ? っざけんな――なんで伝わらねえんだ!」
グーで頭を殴られた。
僕は笑いかけた。
「ノアト、僕のような人間にもったいないお言葉をありがとうございま――」
殴られた。
真珠先生に切り刻まれ燃されなぶられて五年間を過ごした僕には運動音痴の攻撃なんてどうということはなかった。微笑み続けた。怒りは感じなかった。なにも感じなかった。
ただただ、先生が恋しかった。
馬乗りになったノアトが狂気じみた目つきで「ボコす」と宣言する。うん、分かった。感謝の気持ちで「よろしくお願いいたします」と答えた。だって彼には一生理解できない。先生との生活がどれほど幸福だったか。幸せだったか。恍惚とした多幸感に抱擁されて、僕がどんな満ち足りた五年間を過ごしたのか。ノアトは解らない。
愛していると先生は言った。
先生の愛のためなら僕はなんでもした。
この感情はたぶん誰にも説明することができないものだ。愛している。敬愛している。尊敬している。崇拝している。先生を愛することのみがただ唯一の正解で、狂おしいほどに世界は先生のために在り、先生のいない明日なんて地獄だ。涙がこぼれた。
「帰り、たい……」
殴られながらおもわず声が漏れた。
「せんせいに、あいたい……」
育ててくれた恩をいつか必ず返すと決めていたのに、先生はいなくなってしまった。
ああ。先生が可哀想だ。
僕は薄桃色の病棟に軟禁されて、どうすれば孝行できるんだろう?
声を押し殺せなくなってわあわあ泣きだした僕にノアトが首を傾げて訊いた。
「は――? 先生って、あれだろ、ヴィーノを虐待した……」
「虐待じゃありません、ううう」
「てめえを殴ったりとかしたゴミだろ……」
「先生はそんなんじゃないです、なにも知らないのにそのようなことを言わないでください」
「でも! そいつのせいでヴィーノが今こうなってるんだろ!」
「僕なんてどうなってもいいのです、先生のためにすべてを捧げたい、先生を愛しています、それこそが絶対的に正しい、せんせいをあいしたい、つくすべきだ――」
ノアトが叫んだ。
「誰が見ても明白だろ、てめえの先生は、頭がおかしい!」
「違います!」
なにも知らないくせに。先生と過ごした日々の幸福を。
先生の痛いくらいに切実な愛の渇望を。
振りおろされる暴力の愛おしさを。
正しさを。
あんなにも全身全霊で「愛してくれ」と訴えていた先生を、僕は、置いてきてしまった。
「なんでそんなゴミを愛したがるんだよ――」
「黙ってください、ラクロワ・ノアト」
廊下の音という音が消えた。
魔法社会においてフルネームの持つちからは絶大だ。陣に数万から数十万文字を費やす魔法という能力は、一字間違えるだけで術者が死んでしまうことも平気で起こるので、人々は安全な陣が収録された『魔法陣百科全書』をひいて、必要な陣を選びとって使用する。もちろん、そのなかに人を瞬殺できる魔法なんて載っていない。
ただしフルネームを使えば話は変わる。
他者のフルネームを呼ぶことを「名呼び」という。他者にフルネームを名乗ることは「名乗り」という。名乗りを受けた者はそれが本名か偽名かにかかわらず名呼びによって相手を記名式最終代償優先魔法――通称「呪い」で瞬殺する手段を得る。
僕はノアトから名乗りを受けていなかったけど、生きている人をフルネームで呼ぶことは魔法社会で「死ね」のもっとも悪い感情表現とされ、反撃として殺されても正当防衛が成立することがあるくらいのおおごとだった。
絶句しているノアトの腕を振りほどいた。僕はその場をあとにした。
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数分遅刻しちゃった✩~(´>∂`)
――はい。いつもありがとうございます。このページの主人公は読者のかたの99.9%に理解されないだろうとおもって書いています。文章が下手くそで表現に自信は皆無ですが、自分が実体験した感情を書いたものになります。
私にとっての「先生」はガンで死にかけていて、失敗しちゃうかもしれない手術を来月受けるそうです。数ヶ月前から絶縁しているのでなにも返答はしませんでしたが、それを先週末人づてに知らされて、今、このページを書かずにはいられませんでした。
では、今週もありがとうございました。
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