第45話:ドゥー・マイ・ベスト!!
とある競泳選手がこう言った。
《ベストを尽くしたと思えれば何もいらない。レースで一位になろうと、二位、三位、だろうと関係がない。大事なのは、自分ができるかぎりのベストをつくしたかどうか》
《「楽しもう」この一言で現実が変わる》
どちらも俺が目を輝かせた言葉だった。
特に後者はいつも胸にしまっておきたい程だ。大事な時にこそ思い出して、大好きな水泳に臨みたかったから。
――ああ、そういえばそうじゃないか。
見え方聞こえ方こそ違うが、とある後輩も同じような言動をしていたんだな。
そのことに、今更気づいた。
『残り十メートル!!』
学生が本気で泳ぐ時の十メートルは、長いようで短い。
だから、だろうか。俺の胸には寂しさのようなものが生まれている。
お互いを感じとっている元哉もそうかもしれない。
俺達の勝負は、この楽しい競争が、もうすぐ終わるから。
「はぁ、はぁ、はあああああ!!!!」
「ふっ、ふっ、うおおおおお!!!!」
残り五メートルを切った。
ゴールタッチするべき壁は目前だ。
平泳ぎやバタフライとは異なり、自由形は片手でタッチしてよいと決まっている。
元々交互に腕を回して水をかきわけるのだから当然か。
勝負の行方は本当にタッチの差で決まるだろう。だから強く念じてしまう。
届け!
届け、届けとどけ!!
「手を伸ばシテーーーーーーーー!!!」
愛奈の大声がより近くに響いて聞こえた。
導かれるように俺は――鳶瑞博武は手を真っ直ぐに伸ばして、
――ゴールタッチを終えた。
同時に、胸にほとんど残っていない空気を求めて水面から「ぶはぁ!」と頭を出す。
「せん、バィ~~~~~! よかった~~よがったデスよぉ~~~~~!!」
真っ先に目に入ったのは、俺の事を飛び込み台からポロポロ涙をこぼしながら見下ろしている愛奈の泣き顔だった。悲しいのではなく感動した人のソレは、大きな満足感を与えてくれた。
続けて横のレーンへ顔を向ける。
元哉がゴーグルとキャップを外していて、俯いていた。
その肩はぷるぷると震えていたが、すぐに元哉は天井――空へ向かって、
「っしゃああああああ!!!」
吠えた。
今まで見たことがない程に、全身で喜びを表している。
アイツにとってそうするだけの物が俺達の勝負にあったのだ。それが、少しだけ誇らしかった。
――ずっと『今度こそは』って言ってたもんな――
コレが元哉を応援できる立場のレースであれば、盛大に祝ってやっただろう。
けど、今はそれができない。
「ひろむん先輩…………あの……」
何か伝えたい事があるのに伝えられない。
そんな様子の愛奈に向けて「大丈夫だ」と首を振る。
勝負の結末が、決まったのだ。
涙ぐみながら真っ先に元哉に声をかけた氷上マネージャーを初めとした水泳部員達の声でもわかる。零斗は……こちらに背中を向けながら「ごめん、ちょっと目にゴミが」と言いながら鼻をすする音が聞こえるから、今はそっとしておいた方がいいか。
「ああ…………終わったんだな」
ベストは尽くした。
だからこそ、この結果を受け入れられる。
――なんて殊勝なことは言いにくいな。
こうなってからでは遅いのに、二週間前よりも強く『水泳から離れていなければ』と思ってしまうのだから。
ちゃぷちゃぷと波打つ水面から手を出して、自分のゴーグルとキャップを外す。水飛沫が飛び散り、プールに新たな波紋ができた。
どこか物淋しい気持ちを昇華するように、俺は散々お世話になったプールを一度だけぐるっと見渡していく。各レーン、プールサイド、飛び込み台、壁際のベンチに練習用の色んな道具達。全部に何かしらの思い出がある。
「……ふぅ」
溜息にも似た息を吐いてからゆっくりプールから上がろうとする際に「おっとッ」と声を出しながら少しバランスを崩した。
気づけばかなりの疲労感でちょっと足元がおぼつかない。コレもサボってた分のツケか。
なんて思っていたら、どばしゃーーーん!! と傍で水柱が上がった。
愛奈がピョーンと飛び込んだからだ。
「ほら先輩、肩貸してあげますネ♪」
「ああ、すまん」
水滴であちこちを煌めかせた愛奈が俺の腕を肩に回そうとするが、身長差や体格差もあって上手くいかない。なので結局は横から密着して抱きかかえるような形になってしまい、手の置きどころに困る。
「やん♡ 疲れてるからって際どいボディタッチはダメですってばぁ♪」
「悪い、手がすべったんだ」
愛奈はきっと冗談交じりに気分を上げようと気遣ってくれたんだろう。
だが、返ってきたのがツッコミではなく淡々としたマジレスだったので「あ、えぅ~~~んと」と戸惑った声が出てしまっている。
愛奈に補助されながら、なんとかプールサイドに上がる。
いますぐ大の字になってだらけてしまいたい欲求にかられたが、それも良くないだろう。もうこの場所から出来る限りさっさと引き上げて後にするべきなのだ、俺達は。
……いかんな。
こういう時はどうするべきなのかが全く思いつかない。これが放心状態というヤツなのだろうか。
「せ、せんぱぁい……」
「……そんな顔するなって」
うりゅうりゅと瞳をにじませる愛奈の濡れた髪をタオル――は無いので、代わりに力の入らない手をポンと置く。
「ありがとな、お前の応援ずっと聞こえてたよ」
「せ、せんぱッッッ」
泣かすつもりはなかったのだが、遂に愛奈がこらえきれなくなってしまった。
しまったどうしようとオロオロしていると、バサァと大きなバスタオルが頭に飛んできた。
「鳶瑞くん、いい泳ぎだったYO!」
タオルの主は、白い歯を見せながらサムズアップしてるゴリクマさんだった。
ただその、なんていうか……。
「なんでそんな泣いてるんです……?」
失礼を承知で言うなら、直視しにくいレベルで大変な顔になってしまっている。
「しょうがないだろう! それだけの物に魅せられたんDA!! 本当に素晴らしい……ナイスファイトだった!!!」
「ありがとうございます。ゴリクマさんに見てもらったおかげですよ」
「ぬあああ!? 止めないかこれ以上大人を泣かせにかかるのHA?!!!」
照れ隠しなのか、ここにいる人間の中で最もパワーがあるであろうゴリクマさんに支えられて一旦ベンチへ移動する。そこにはぶすっとした顔の九錠先生が待ち構えていた。
「あ、あの……ドコモイタクナイデスヨ?」
「問診する前に答える辺り、よくわかっているようだね?」
頭から汗がダラダラ流れそうな俺に対して、ひんやりクールな言葉が刺さる。
実際にダルい箇所はあってもどこにも痛みはない。ない……のだが、無言で身体をチェックしてくる九錠は多少怖い。
「念のため詳しく調べた方がいいが……まあ、目立っておかしなところはないね」
「……ほっ」
「とはいえ、さっきからフラフラして危なっかしい。それで事故られちゃ敵わないから車で送ろう」
「ハイハーイ♪ あたし、近所の美味しいジェラート屋さんに行きたいデース♡」
「うん、愛奈がそういうなら寄り道しよう。いいよね鳶瑞くん?」
「モチロンデス」
だからその、その逆らったら●スみたいな目つきは勘弁してください。
なんて直視できない視線を避けるために顔を逸らしていると、
「あ、あの……鳶瑞くん」
「ん?」
水泳部の後輩――
ギャラリーとして応援もしてた上に、こっそり俺の練習を手伝ってくれた若手だ。
「その……ほ、ほんとにこれで終わりなんスか!? もうこの水泳部には、戻れないんスか!?」
「それは……」
なんと答えればいいのだろうか。
すがるような瞳を向けてくるこの後輩に何の感慨も無く「イエス」とは言いにくい。
だが約束は約束。勝負は勝負だ。
それを無下にすれば今回の勝負を無意味にしてしまう。
うーむ、困ったな。
そんな悩みを知ってか知らずか。助け船(?)は意外なところから出てきた。
「おい博武!」
氷上マネージャーに付き添われながら、大分バテてるであろう元哉がズンズンと近寄ってきてこう告げたのだ。
「俺も車に乗せろ。……美味いジェラートとやらが喰いてえ気分になった」
不可思議な申し出に俺は大きな声で「は???」と返した。
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