第43話:熱く速く、まっすぐに
――変わった。
個人メドレー中盤を過ぎた頃から大人達は彼らの変化を察知していた。
冷静に状況判断した九錠が動き出そうとすると、その肩を大きな手が押しとどめた。強い力で止めるのではなく、ただ優しくポンと乗せるだけのような柔らかな動作だ。
「ゴリクマさん――」
「すまない九錠先生」
邪魔をしないでください。
そう告げようとした九錠の口元が一音目を発しようとしたままで固まる。
睨もうとしたその先で、自分の肩を掴んでいる巨漢の筋肉男が滂沱していたからだ。
「あなたから見ておかしなところがあるのは十分に
人目も気にせず大の男が滝のような涙を流しながら言葉を続ける。
ぐずぐずになった顔をぬぐおうともせず、ただ少年達を見届けている。
「だが、アレはあなたが気にかけていたものとは違うのだ。大丈夫だから、どうかゴールまで止めないでくれ。……あんなに楽しそうに泳ぐ鳶瑞くんを、ワタシに再び魅せてくれている彼を――彼らをあのままに」
堪えきれなくなったのだろう。
ゴリクマはどこからかタオルを取り出している。
迷った九錠は水泳部コーチの水座芽に視線を送った。彼ならこの状況をどう判断するのかを、確認するために。
「……悪いな先生よぉ。オレも止めらんねえわ」
見ればこっちの男も、ゴリクマのようにわかりやすすぎはしないが静かに涙を流している。男泣きだった。
元々博武と元哉のような関係だった二人は、今は指導する側になったスポーツマン達は、医者として来ている九錠よりもずっと彼らの気持ちに寄り添えているのだ。
そんなハッキリした態度をされてしまっては、九錠も呆れたように溜息を吐くしかない。
「わかりました。でも、準備だけはします」
「ありがとう九錠先生。……よし、それではココからはワタシも若者達のように盛大な応援をしようではないKA!」
「てめぇの声はデカすぎて選手の邪魔になるんだよ! やるならせめてオレと同じ程度に抑えてやりやがれ」
「Hum、ではさっさと応援したまえコーチ殿? ま、別に声量が同じだろうが熱量と密度で負ける気はしないがね」
「フクじゃねえか!? おお、やってやるぜ! 那賀川学園水泳部伝統の応援技を披露してやらぁ!!」
「……やれやれね」
二人のやり取りにもう完全に呆れてしまった九錠は「男はいくつになってもバカなのかもしれない」と思いつつ、再びプール側へと顔を戻した。
そこで気づく。
勝負開始時からずっと、視界の隅でどうやっても目立っていた可愛い姪が飛び込み台――今はゴール――にハラハラした様子で向かってくる。
「はぁ、熱いなぁ」
空調が効いているはずの屋内プールで、彼女は顔に向けてパタパタと手で扇ぐ。
その熱さは夏ゆえか、それとも場内に満ちる熱気か、はたまた近くにいる
答えは出ない。
だが、その中心にいるのは全力で勝負に臨んでいる少年達なのだ。
◇◇◇
自由形――四つ目の泳法は、とにかく加速していく博武を元哉が追っていく展開となった。元哉からすればムカツクことこの上ないのだが、前方で水飛沫も大してあげずに美しく泳ぐ博武は『本当に故障していたのか』と疑う程に速い。
(舐めてたんだなオレは)
余裕をもって抜き去った段階で、もう博武に勝ったと思っていた。
もう無理をするな、お前の分もオレがやってやると息巻いた。
――ひどい誤解だ。
女連れで来たから腑抜けたなんて、全然わかっちゃいない。
この泳ぎを前にした今は伝わってくる。博武は誰かのおかげで復活して、挫けずに泳ごうと決意したのだと。
その誰かがどいつかなど、もう確認するまでもなかった。
後で一発殴られてもいい。
それぐらいのバカをやってしまったと元哉は思わずにはいられない。
(だがな! 勝敗は別だ!!)
崩れかけた心をすぐに立て直して、元哉は横向きに顔を水上にあげて大きく呼吸をする。隅々まで力を行き渡らせた泳ぎで対抗するために。
楽しそうに泳ぐ長年のライバルのように、今この瞬間の泳ぐ楽しさを少しでも持続させるために。
(行くぞ博武!!!)
何か加速するスイッチでも押したかのように、元哉はさらにペースを上げた。
「うおおおおおおおお!!!」
その気合によってコース上に大きな波が立ち、コースロープが揺れる。
だからといってガムシャラに滅茶苦茶に泳いでいるわけではなく、あくまで前に進むために元哉は泳いだ。
(きたな、元哉!)
水中の世界で元哉の強い気配を感じた博武が微笑む。
いつだってあのライバルはそうだった。諦めずに、絶対自分が勝つ! そのつもりでどこまでも泳いでくれる希有な存在。大切な水泳仲間。
(でもそう簡単には追いつかせないぞ!)
(ぬかせボケが!!)
「「先にゴールするのは俺(オレ)だ」」
まるで子供が意地を張りあうように。同じ目的地を目指す二人が笑いながら押しのけあうように。博武と元哉は戦っている。
その光景を目の当たりにして誰かが呟いた。
「なんかあの二人、すげえ楽しそうッス……」
観ていた者達は皆、同じ気持ちだったに違いない。純粋に泳ぐのが、競い合うのが、楽しくて仕方ない。
そんな気持ちにさせる競泳に胸が熱くなる。
あんな風に泳いでみたいと、熱くメラメラと心が燃え盛る。
そのせいで、叫ばずにはいられなくなる。
「元哉せんぱーーーーい、あと少し! あと少しで並びます!!」
「博武さん、ファイ・トォーーーー!!!」
口々に飛び交う声援は一方的なものではなく、また完全にどちらかに属するわけではなかった。博武派も元哉派も、それぞれの推しを中心としつつも対戦相手側にもエールを送り始める者もいた。記録用機材担当者は、目の前の対決を取り漏らさないように感動で震えそうな手を抑えるのが大変だ。
「あと約三十五メートル」
審判役を兼ねている零斗が静かにそう告げた。
やや博武がリードしていた自由形は、元哉の追い上げによってどちらが有利かも読みづらくなっている。
ほんの少し、何か小さな要素が絡んだだけでもこの結果ぎかてもおかしくない。
たとえば――確実に両者に発生するターンがソレだ。だが個人メドレーで自由形に入ってしまえばターンはない。泳ぎ方もクロール一択。
あとは一直線に五十メートルを――今やあと二十メートル程だが――ひたすらに速く、速く泳ぎきるだけだ。
「タッチの差をちゃんと見切るのは簡単じゃないんだぞ二人共!」
ただ、そのタッチの差で決着がついてもおかしくないので零斗は絶対その瞬間を見逃さない場所であるゴールの壁横で身構える。
するとその背後や左右に誰かがきた気配がした。
「私も見るしカメラでも撮ってます!」
「反対側からはコーチ達が見てますから大丈夫ッス」
これまた好き勝手してくる女子マネージャーや部員達に、零斗が微笑む。
その直後、ゴール近くには来ないでいたギャラリーからまた歓声があがった。
「並んだーーーーー!!?」
「どっちも頑張れーーーーーー!!!」
残り距離は二十メートルを切っている。
決着がもうすぐ着くのだ。
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