第42話:あの頃のように
いち早く気付いたのは、ずっと彼に熱い視線を向けていた愛奈だった。
今日はツーサイドアップにしていたボリュームのある金髪を揺らしながら、大きく全身で声をはりあげていた彼女の動きがゆっくり落ち着いていく。
「さすが、あたしが推してるセンパイです」
以前愛奈が口にしたように、彼女は自分が持っているこの気持ちが何なのかをイマイチよくわかっていない。曖昧なままわからなくてもいいとも思っている。
言語化できなくはない。
ただ、口にした瞬間にその気持ちは胸の中にある時と違うものに変わってしまうかもしれない。そう考えてしまっては伝えるのも憚られる。
ただ、それはそれとして。別の叫びだしたい気持ちが、衝動が沸き上がってきた。
だからつい、祈るように呟いてしまう。
「……今の先輩はとってもカッコイイ男の子してますヨ♡」
推しメンがキメようとしている瞬間は、何よりも尊くてカッコよく映る。
その最愛の姿を一瞬たりとも見逃さないように、愛奈は博武から目を離さないようにしつつ飛び込み台の方へと早足で駆けていった。
◇◇◇
――五十メートル半ばの位置。ギャラリーが多いプールサイドとは逆側で勝負の行方を見ていた零斗は先程まで苦しげにしていた。だが、その苦しさはもう消えている。代わりに出てきたのは驚きだ。
――追い上げている。
――差が、少しずつ縮まっている。
元哉の泳ぎは圧巻だった。
以前よりも大きくパワフルで、そして速い。
正直言って、水泳から長い間離れていた博武ではきびしいと予想していた。
だとしても二人のわだかまりが解けるキッカケになるなら、きっとこの方法がいい。そう考えたからこそ仲間内で何度もしてきた勝負を提案したのだ。
勝負は背泳ぎの時点で、差は大きく開いてしまっていた。
普通なら絶対敵わないとあきらめていいレベルだろう。
「なのに……博武。キミはッ」
変わったのはおそらく背泳ぎの後半から。
変化は二度目のターンをした後からより顕著になった。
――目に見えて、博武のペースが上がったのだ。
まさか当初の元哉のように相手の様子を見ていたわけでもないはずだ。そもそも状況的に博武の方が劣っていると考えてよいのだからメリットがない。最初から全力、その上でどれだけ今の元哉との差を埋められるかだったはず。
「それが、どうだい」
普段からまとめ役として自身の気持ちをあまり強く表に出さない。その零斗が、珍しく強い驚きをその声と表情で表に出している。
「すごいよ博武。キミはいつも、僕をびっくりさせてくれる」
博武の泳ぎは、故障前となんら遜色のないものに見えた。
実際そうなのだろう。
そうでなければ、調子を崩したままでは、元哉に追いつけるはずがないのだから。元哉が他の四泳法に比べて少しだけ平泳ぎが得意ではないといってもだ。
口では当たりが強いことを何度も言いながら、その際実は無自覚に「もう無理するな、もういいだろ!」と博武に対して強く想い引導を渡してやる。元哉がそうしようとしている事を零斗は気付いていた。
けれど、やや元哉贔屓な考えを持った零斗から見て、博武に戻ってきたものはしなやかで美しい泳ぎ方だけではなかった。
まだ会って間もない頃から彼がしていた楽しそうな顔。気負い過ぎてからは見れなくなったあの晴々とした面構え。
泳ぐのが楽しくて仕方ない。速いヤツと泳ぐのはさらに楽しい、最高だ。
無邪気な子供な気持ちを周りに伝播させるほどの楽しく泳ぐ姿は、零斗が知る限りでは最も博武が速い時の条件だった。
「ああ、もう。こんなになるなんて思ってなかったよ」
元哉に譲るんじゃなかった!
冷静な少年は、珍しく心の中で大きく愚痴った。
自分も参加しての三人で泳ぐ勝負にすればこんな後悔もなかったのに、と。
◇◇◇
(……なんだ?)
ピリッとしたものを元哉は感じとった。
ソレは彼の感性で表現するなら殺気だろうか。ケンカで強い相手がいる時や、不意打ちを仕掛けられそうな時に感じるナニカに似ている。
その気配は後ろから近付いてきた。
そのピリピリはビリビリとなり、強く迫ってくる。
さすがに気になって、一瞬だけ背後を確認する。
ちょっと考えればそんな必要もないはずなのに、後ろにいるのが誰かなんて知っているはずなのに、わずかなロスをしてまで見てしまった。
(博武ッッ!!)
突き放したはずの相手が、ものすごい勢いで追いついてくる。
まるで獲物を後ろから喰らおうとする鮫のように。
(ハッ! だからなんだってんだよ!?)
水泳をしていれば後ろから追われることなんて幾らでもある。
その度に元哉は追ってくる相手を突き放して、あるいは追いつかせずに勝利をもぎとってきたのだ。
ゆえに焦ることなく、元哉はさらに力をこめて泳ぎ始める。
むしろその状況は彼にとって嬉しくすらあった。落ちたと思っていた相手が息を吹き返して、自分に勝とうとしてくれているのだからと。そう感じられたから。
(いいぜ博武! こいよッッ、お前がどんだけ無理をしようが今は俺の方がはええんだ!!)
動きは大きく強く、けれども少し緩んでいたフォームはしっかりと! 元哉は先程まであった過去の後悔を欠片も引きずらずに、全力で泳ぐ。短時間で自身が出せる出力を全開まで解放する。
それを博武が再び放されるまで続けるつもりだった。
だが――――予想よりも博武をはなせない。
(!?)
むしろ、どんどん近づいてきている。
(くっそが!? 何がどうなってやがる!!!)
予測と違い過ぎる展開に慌てて、少しだけ元哉のフォームが乱れた。
その隙を突くかのように、そうなるのがわかっていたかのように博武が加速する。
「追いついたあ!!?」
「まじかよすげえ?!!」
もはや後ろを確認する暇すらない元哉の耳にギャラリーの声が届き、現状を否応にも教えてくれた。大きな気配もずっと近くにいる。もう相手との距離は、腕一本分の距離も無いかもしれないと知らせてしまう。
(くそ、くそ、くそぉ!!)
半ばがむしゃらに腕を広げ、足で水を蹴る。
間違いなく自分の調子は悪くない。どこも故障なんてしていない。
そのはずなのに、
「抜きましタよーーーーーーー!!!」
三度目のターン直前。平泳ぎから自由形へ移行する前に、元哉の横を博武が抜き去り先にタッチターンをキメた。
(!!!)
今度は元哉が後ろにいる形で、博武とすれ違う。
何度も見たことがあった。見ようによっては人を小馬鹿にするような、本人は純粋に楽しんでる時の面で。
『早くこないと、またオレが勝つぞ元哉!!』
言葉なんてなくとも伝わる。
競争している時の、本当に楽しんでいる時の博武のむかつかせてくる顔つきが、
『ふざけんな博武!! 今度こそ勝つのはオレだ!!!』
元哉にあった余計な感情をすべて吹き飛ばした。
後悔も、迷いも、負い目も全部。これからはただ、元哉の気持ちは博武に勝つという一点だけに集中していく。
先を泳ぐ博武。
それを必死に追う元哉。
まるで、共に泳いでいたあの頃が戻ってきたかのように。
そうなってからは早かった。
いつの間にか元哉も、前をゆく博武と同様の笑みを浮かべていた。
全力だと思っていたものを通り過ぎて、少年達は揃ってさらに先へと泳ぎはじめたのである。
競い合う二人の姿にギャラリーが称賛する。
その声も置き去りにしたかのように、両者にはもう余計なものは聞こえていなかった。
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