第3話:泳げ後輩ちゃん♪


「……で、どう泳げるようになりたいんだお前は」

「こう、スイスイーって感じで♪」


 日光にさらされたプールに入った愛奈が、軽快な口調で両手を左右に開いたり閉じたりする。

 どうやら平泳ぎの手の動きをしているようだが、横にいる俺に水をぶっかけるような力の入りっぷり方からはスイスイという感じはしない。


「平泳ぎができるようになりたいのか」

「いえ? ぶっちゃけ泳げればなんでもいいです」

「そうか。ちなみに平泳ぎは比較的難しい泳ぎ方だって知ってたか?」

「えっ! そうなの?!」


 素で驚いてる愛奈は、本当に知らなかったようだ。

 実際問題として簡単に溺れるようなヤツが平泳ぎを習得するのは中々大変だ。水泳の泳ぎ方といえばクロール・平泳ぎ・背泳ぎ・バタフライの四つだが、平泳ぎとバタフライが難しく、クロールと背泳ぎが比較的簡単。

 もちろん本格的に速くなろうとするならば、どれが簡単でどれが難しいかは簡単には判断できないが……。

 

 強引に泳ぎ方を教えろと願ってきたこの女は、それよりもずっと前の段階といっていい。かといって引き受けた以上はちゃんと教えてやるべきだろう。


「蜂丈 愛菜。今から質問をしていくから真剣に答えてくれ」

「はい先輩、さっきからガン見してる胸のサイズはE以上でッス♪」


 でっか!?

 ……いや、違うそうじゃない。落ち着け、惑わされるな。


「誰もそんな事は聞いていない」

「至って冷静なフリをしてますけど、先輩めっちゃ焦ってません? それからあたしの事は愛奈タソって呼んでいいですよ♪」

「わかった愛奈。お前、水に顔はつけれるか?」

「いきなりの呼び捨てはキュンときますが、バカにしてます? それぐらいよゆーですよ」

「では何秒潜れる?」

「えーっと、1分ぐらい?」


 百パー嘘だ。

 そうツッコミそうになるのをぐっとこらえて、俺は事務室から借りてきた水泳教室用のストップウォッチを構える。


「念のため今どれくらい潜れるかを量ろう。準備ができたら頭まで潜ってくれ」

「ふっふっふー、いいでしょう。じゃあいきますよー? えいっ!」


 ざぶん! と勢いよく潜る愛奈。

 水泳帽をつけていない上に結んでもいない彼女の長い髪が広がって、ゆらゆらと揺れる。


 さてお手並み拝見とストップウォッチのスイッチを押して、1分を待つ。


「ぷはあ!!」


 その十分の一以下の時間で愛奈が顔をあげた。

 はやすぎかッ。


「ど、どうですか先輩! これはもう余裕で二分いったっんじゃ!」

「お前のカウント方は5倍速かなにかか?」

「ええ!? わっ、ほんとだ。……これ、先輩が不正したんじゃ?」

「正真正銘の純正タイムだ」


 ま、これでコイツの実力はわかった。

 基本中の基本からだなコレは。


「いいか愛奈。お前がどれくらい泳げるようになりたいのかはわからないが」

「先輩ぐらい速く♪」

「十年早い。まずは……そうだな、水面で全身をのばしてみろ」

「こうです?」

 

 愛奈が指示通りにピンと全身をのばして水面に浮こうとする。

 だが、ちゃんと浮ききる前に「あばばばばッ」と奇声を発しながらバタついたので、横から身体を支え持ってやった。

 この際、どこもかしこも男にはない柔らかさで触れるのが怖いとか言ってられない。


「いいか、この姿勢だ。そのまま余計な力が入らないよう脱力するんだ」

「そ、それじゃ沈むじゃないですか!」


「出来ていれば沈まない」

「で、でも……水飲んじゃうかもだし……また溺れるかも……」


「絶対にない。その時は俺が止める、だから安心してやってみろ」

「やだパイセンってば、こんな近くで安心してヤれなんてなんか卑猥♡」

「……離すぞ?」

「すんません、ちゃんとやりますハイ」


 ちゃんと顔も水につけて愛奈が全身をのばす。

 同時に消えていく重みに合わせて俺が支えていた手を放すと、ぷか~~と愛奈の身体がちゃんと浮いた。そのまま可能な限り見守っていると、息が続かなくなった愛奈が立ち上がる。

 記録はざっと十秒程か。


「ふはぁッ。ど、どうでしたか!? あたし、浮いてましたよね!」

「ああ。ちゃんと出来てた」

「やった! いやー、やれば出来るもんですね。先輩に補助してもらったおかげです」

「いや、お前が自分で浮いたんだよ。やるな、愛奈」

「え、えへへへ。先輩が横にいてくれたから安心して出来たんですよぅ」


「よし、次は仰向けで同じことをやろう。それができれば、背泳ぎだってすぐ泳げるかもしれないぞ」

「マジで!? やりましょう、すぐやりましょう」


 正直に言おう。この指導はあまりよくなかった。

 何故ならば、


「うはーー、見てください先輩♪ さっきよりも余裕で浮いてますよ、仰向けの方が簡単なんですね!」

「いや……決して仰向けが簡単なわけじゃ……多分、お前だからだよソレは」


 少しだけ顔の中心に危険な兆候を感じた俺は、手で鼻をつまんで上を向く。

 嬉しそうにぷかぷか浮かぶ後輩の胸部。そこに備わっているふたつのこぼれおちそうな大きなウキは暴力的で、予想外の衝撃を与えてきたからだ。


「ねえ先輩」

「ん」

「大きいと浮くのに便利ですね♡」

「……それ以上言うな」


 それから手を引っ張りながら泳ぐ練習をしていったが、愛奈はみるみる泳ぎの基礎を覚えていき、気付けば少しだけバタ足で泳げるようにまでなっていた。

 どうやら泳ぎ方を知らないだけで、運動神経は悪くないらしい。


「やったやった! 先輩見ましたか! さっきより前まで泳げるようになってますよね!?」

「ああ。やるな、愛奈」

「コレで明日には端から端まで泳げますかね!?」

「それはさすがに無理だろ」


 いや待て、それよりもだ。

 ――明日も来るつもりなのかコイツ。



 ◇◇◇

 


 それから数日間。

 愛奈は毎日俺のいるプールに通い倒した。


 何を熱心にそこまでと思いはしたが、


「やー、泳げるようになるって気持ちいいー♪」


 泳ぐ楽しさを満喫している彼女を見ていたら、悪い気はしない。

 ふと思い出す。

 俺にもあんな時期があったのだ、と。


 子供の頃の俺はあいつと同じようにこのプールで、泳ぐことを覚えた。

 それから夢中になって泳いで、泳いで……色んな泳ぎ方を試したり、フォームを気にするようになったり。


「……そっか、そうだったな」


 ただ楽しく泳ぐ。

 そんな気持ちを、今更になって思い出すなんて。


「せんぱーい♪ どうですか、あたしの華麗な泳ぎは♡」

「調子に乗ってると足つるぞ」


 あれだけ余裕そうなら、もうほとんど補助も必要ないな。

 プールサイドでそんな風に考えていると、


「おっ、また彼女来てるのか。精が出るね」


 俺に監視員を頼んできた職員のおじさんに、声をかけられた。 

 この人は俺が小さい頃からずっとココにいるようだが、その人の良さはまったく代わり映えしない。

 とはいえいくら人が良いといっても、職務放棄は良くない。


「すいません、さすがにもう監視員椅子に戻りますね」

「あまり気にしなくていいよ。僕も子供に頼まれたら教えるし、博武くんが誰もいない時間を見計らって教えてあげてるのはわかってるから」 

「でも、外聞が悪いですよ」


「ふーむ、それなら責任感のあるキミに一つ頼みごとを引き受けてもらおうかな。なぁに悪い話じゃない」

「……お願い?」


 訝しがる俺に、小麦色肌の夏ルックおじさんが歯を見せて笑う。


「今度やる子供水泳教室の担当者が調子を崩してしまったらしくてね。博武くんにはその代役をお願いするよ」


 ポン、とゴツゴツした手で肩を叩かれる。


「そうだ、あそこの可愛い彼女にも来てもらうのはどうだい。キミは気にせず泳ぎを教えられて、彼女は普段よりみっちり教えてもらえる。何よりこのプールが賑わって僕が嬉しい。良い事づくめだ」

「いや俺はまだ引き受けるとは――」

「やって、くれるね?」


 有無を言わさぬ迫力をモロに受けた俺は、

 もう、職務を全うするしかなくなった。 





 


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