第二話

 土師器はじきを投げつけられたのは久しぶりだ。

 もう六歳くらいから、親父が投げてくるのをちゃんと見て、避けられるようになっていた。

 でも三虎だったから……。

 避ける気になれなくて、体が固まってしまった。

 額の真ん中に綺麗に命中したものだ。

 三虎は、弓の腕が良いから……。

 三虎に、土師器を投げつけられた。

 その事実が辛い……。


「うっ……、うっ……。」


 古志加こじかは一人、泣いていた。

 卯団うのだん衛士舎えじしゃから少し離れた、卯団の畑だ。

 顔や首のすすや、返り血は布でぬぐってあるが、まだ全身血だらけ煤だらけだ。

 本当は湯殿に行かなければならない。

 そして薬草を塗ってもらわないといけない。

 日佐留売ひさるめの部屋に行こう。

 そしたら、三虎に何を言われたか、話さないといけない。

 日佐留売はあたしを助けてくれるかもしれない……。

 淡い期待をあたしは繋いでる。


(でも、今回はダメだ。)


 三虎に卯団を出ていけと言われてしまった。

 日佐留売が、女官としてここに残っていい、と言ってくれたとしても、三虎に嫌われてしまっては、もう……。

 三虎は、


「明日にでも秋間郷あきまのさとに送ってやる!」


 と言っていた。


(あたしはどうなってしまうんだろう。)


 決まってる。

 三虎が条件が良いと思うおのこの妻にさせられてしまうんだ。

 それで終わり……。

 湯殿に行き、日佐留売に話をしなければ。

 でも足が動かない。

 古志加は涙をぬぐいながら、もくもくと畑の雑草を抜いた。


 あまりに悲しみにくれていたので、己に不自然な影が落ちたのに気がつくのが遅れた。

 はっとして振り向くと、大岩を持ち上げた男が古志加に向かって、岩を打ち下ろすところだった。

 頭に衝撃がガアンと走り、

 白い光が散った。

 気を失う。




     *   *   *




「う……。」


 気がつくと、桑の林のなかで、あお向けにされていた。

 木々の葉に閉ざされた空が見えた。

 おそらく、卯団うのだんの畑の近くのヤブに引きこまれたのだろう。

 己の上にのしかかり、馬がむように、古志加の胸元で頭を動かしている上半身裸のおのこがいる。

 己の胸の麻布まではだけていた。


(この野郎……!)


 猛然と怒りが湧き上がり、無言で右拳を男の脇腹に鋭く打ち込んだ。男が、


「ぐぅ。」


 とうめく。

 そのまま右肘を男の頭にくらわせようとしたが、それより前に男の手が伸びて、左肩の傷を思いきり握られた。


「つああああ!」


 焼けるような痛みに苦悶の声をあげ、引きったように全身が震えた。

 男は古志加に馬乗りになり、左肩の傷から手を離さないまま、古志加の頬を拳で殴った。

 一回。

 二回。

 三回。

 四回。

 視界がくらくらとし、鼻血が出、口のはじからも血が出た。

 焦点の定まりきらぬ目で、男をにらみ、


「てめぇ……、許さねぇ。」


 と古志加は毒づいた。


(左肩から手が離れたら、反撃してやる!)


 男は、二十代半ば。知らない顔だ。

 ニヤリと笑って、


「まあ話を聞けよ。吉弥侯部きみこべ 古志加こじか

 ここには人は来ない。於屎売おくそめに聞いて知ってる。」


 頭。頬。左肩。あちこちの痛みを感じながら、古志加は眉をひそめた。


(なぜ名前を……?)


 本当に知らない男だ……。


「オレは小田知怒麻呂おだのちぬまろ

 オレの親父は板鼻郷長いたはなのさとおさ小田馬養おだのうまかい

 こう言えばわかるかな? ん?

 オレは戊申つちのえさる(768年、5年前)の一月から、

 おまえの顔と、石上部君いそのかみべのきみの三虎の顔を忘れた日は一日たりとてない。

 オレは五年前のあの日、隠れ納戸なんどから一人で全部見てたのさ……。

 おまえは縄で縛られた親父を殴った。

 許さねぇ……。」


 男の顔が憎しみで赤く膨れ上がり、古志加の左肩をぐいと押した。

 たまらず、古志加の口から苦悶の声が出る。

 男は力を緩め、睨みつけている古志加の顔を見てニヤリとし、


「おまえの母刀自ははとじを殺したのは親父じゃない。

 オレだ。

 さらったのは親父だが、舌足らずだと知って、オレに押しつけたのさ。

 まあ顔も身体も良いものだったが、わけの分からないことをペラペラと……。

 腹が立って、つい、いつもより手に力が入っちまった。」


 と言った。


「……!」


 ぞっと全身に鳥肌がたち、

 沫雪あわゆきが地面に触れ、溶けて消えていくように、古志加の頭の中から何もかも消えてゆき、真っ白になった。


(なんて言った、なんて言ったのだ、

 このおのこは……。)


 全身の力が抜け、すぐに熱い涙がせりあがり、とめどなく古志加の頬を伝った。


「う……。」


母刀自ははとじ……!

 そんな、ひどい事を……!)


 古志加が悲嘆の涙を流すのを見て、満足そうに男が笑った。


「おまえも母刀自と同じ目にあわせてやる。

 黄泉でオレの親父に詫びるが良い。」


 そう言って男が左肩から手を離さず、古志加にのしかかってきた。


「あ……、いや……。」


 男が左肩から手を離したとしても、今の古志加には反撃できない。




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