第三話  烏玉の闇、其の二

「う……。」


 気がつくと、古志加こじかは桑の林のなかで、草むらの上にあお向けにされていた。

 木々の葉に閉ざされた空が見えた。

 おそらく、卯団うのだんの畑の近くのヤブに引きこまれたのだろう。


 古志加の上にのしかかり、馬がむように、胸元で頭を動かしている上半身裸のおのこがいる。

 古志加の濃藍こきあい衣は胸襟きょうきんを開かれ、胸の麻布がはだけ、乳房がむき出しになっていた。


(この野郎……!)


 猛然と怒りが湧き上がり、無言で右拳を男の脇腹に鋭く打ち込んだ。

 男が、ぐぅっ! とうめく。

 そのまま右肘を男の頭にくらわせようとしたが、それより前に男の手が伸び、古志加の左肩の傷を思いきり握った。


「つああああ!」


 焼けるような痛みに苦悶の声をあげ、引きったように全身が震えた。

 男は古志加に馬乗りになり、左肩の傷から手を離さないまま、古志加の頬を拳で殴った。

 一回。

 二回。

 三回。

 四回。

 視界がくらくらとし、鼻血が出、口のはじからも血が出た。

 古志加は焦点の定まりきらぬ目で、男をにらんだ。


「てめぇ……、許さねぇ。」


(左肩から手が離れたら、反撃してやる!)


 男は二十代半ば。知らない顔だ。

 ニヤリと笑って、


「まあ話を聞けよ。

 吉弥侯部きみこべの 古志加こじか

 ここには人は来ない。於屎売おくそめに聞いて知ってる。」


 古志加は眉をひそめた。


(なぜあたしの名前を……?)


 本当に知らないおのこだ。


「オレは小田知怒麻呂おだのちぬまろ

 オレの親父は板鼻郷いたはなのさとの郷長、小田馬養おだのうまかい

 こう言えばわかるかな? ん?

 オレは戊申つちのえさる(768年、5年前)の一月から、おまえの顔と、石上部君いそのかみべのきみの三虎みとらの顔を忘れた日は一日たりとてない。

 オレは五年前のあの日、隠れ納戸なんどから一人で全部見てたのさ……。

 おまえは縄で縛られた親父を殴った。

 許さねぇ……。」


 おのこの顔が憎しみで赤く膨れ上がり、古志加の左肩をぐいと押した。


「うぐっ……。ぐ……。」


 古志加の顔は苦痛でゆがみ、脂汗が浮き、食いしばった歯の隙間から苦悶の声が出る。

 男は手の力を弱め、ニタリ、と笑って古志加を見下ろした。


「おまえの母刀自ははとじを殺したのは親父じゃない。

 オレだ。

 さらったのは親父だが、舌足らずだと知って、オレに押しつけたのさ。

 まあ顔も身体も良いものだったが、わけの分からないことをペラペラと……。

 腹が立って、つい、いつもより手に力が入っちまった。」


 おのこは自分の首を左手で締める真似まねをし、げぇ、と舌を出して見せた。


「……!」


 古志加は、ぞっ、と全身に鳥肌がたち、頭が真っ白になった。


(なんて言った、なんて言ったのだ、このおのこは……。)


 全身の力が抜け、すぐに熱い涙がせりあがり、とめどなく頬を伝った。


「う……。」


母刀自ははとじ……!

 そんな、ひどい事を……!)


 古志加が悲嘆の涙を流すのを見て、男は満足そうに笑った。


「おまえも母刀自ははとじと同じ目にあわせてやる。

 黄泉でオレの親父にびるが良い。」


 小田知怒麻呂おだのちぬまろは、怪我した古志加こじかの左肩から手を離さず、古志加にのしかかってきた。


「あ……、いや……。」


 男が左肩から手を離したとしても、今の古志加には反撃できない。

 古志加は悲しみがあふれ、あふれ、全身に力が入らない。


「やぁ……。」


 細く弱々しい声が初めて古志加の口から出た。


 おみならしい声。


 今までに、布多未ふたみに裸を見られ、悲鳴をあげようと、阿古麻呂あこまろから手に口づけされ、変な声をだそうと、それは驚いただけ。

 自分の中から女らしい声を、古志加は聞いたことがない。

 不思議と、三虎をこんなに恋うているのに、自分の中でそれが女らしさに直結しない。

 自分の中の女らしさを、いまだに古志加は探しあぐねていた。

 それがこのような時、このような相手に剥き出しになるとは、なんとも皮肉であった。


 そして悟った。


(反撃できない。あたしはこのまま、今ここで、このおのこに好きなようにされて、おみなを奪われてしまう。)


「やぁ……!」


 涙があふれ、馬のように古志加を喰む男に必死に耐えながら、


「三虎──────!!」


 声をかぎりに、命をかぎりに、恋しい人の名を呼んだ。


 おのこが顔をあげ、笑いながら何かを言おうとした。


「げふっ。」


 続けざま、二本の矢が飛んできて、

 一本、男の後ろ首に深々と突き刺さり、一本、古志加の右肩の上の髪に突き立った。

 男が血を吐き、目から急速に光が失われ、絶命した。

 男の言葉は永久に失われた。

 どさっと古志加の上に男が倒れこんできた。

 背筋に怖気おぞけが走ったが、男をどかす気力が出ない。


「古志加! そこか!」


 声がした。

 古志加がただ涙を流し、荒い息をついていると、やがて身体の上から男がどかされ、身体が軽くなった。


「古志加! 大丈夫か!」


 三虎だ。

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