第2話 難病の少女


 それから何度目であったろうか――



「これは?」



 ――赤い扉が見せる景色が一変した。



「診察室?」



 そこは間違いなく病院の診察室で、白衣を纏った医師と幼い少女、その母親らしき女性の三人の話し声が聞こえてきた。



『……未知みちさんの病気はおそらく遺伝性痙性対麻痺いでんせいけいせいついまひだと思われます』

『えっ……あの、それは?』



 医師から告げられた聞き慣れない病名に戸惑とまどう幼い少女とその母親。


 まだ十に満たない少女の方が未知と呼ばれた患者であろう。



『かなり稀な疾患です。小脳や脊髄が萎縮いしゅくし運動障害や痙攣けいれん、麻痺を引き起こす神経変性疾患しんけいへんせいしっかんです……』



 その後、なるべく平易へいいにイラストを描きながら医師は解説していくが、未知にも箱庭世界から覗いている少女にも難解すぎて理解の埒外らちがいだ。



『……通常ならゆっくりと進行していく疾患なのですが、未知さんは発症年齢も症状の悪化も類を見ない程に早いのです』



 病気の詳細は分からなかったが、箱庭の少女は未知が重い病気に罹患りかんし絶望的な状況にあるのだろうとは薄っすら感じられた。



『それでは未知は……』



 母親が医師に何か問い掛けたが、その声を掻き消すように扉が大きな音を立てて閉じていく。


 完全に赤い扉が閉まっても少女はしばし先程の光景を反芻はんすうしながらたたずんだ。



「今の何だったんだろ?」



 今までとは全く異なるものを見せられて少女は戸惑った。



「でも……ちょっと引っ掛かる」



 この告知のシーンも少女の記憶に触れた。が、どうにも思い出せない。

 刺さった棘が思うように抜けない、少女はそんなもどかしさを感じた。



 それ以降、赤い扉は少女に未知を見せ続けた。未知の病気はどんどん悪化していき手の施しようがなくなっていく。


 何とか病状の進行を遅らせようと未知は懸命にリハビリを行い、飲みたくもない薬を服用する毎日――未知の日常は闘病の記録。


 だから、赤い扉の先はその殆どが病院の中になった。


 まるで未知は白い箱の中に囚われているよう……


 中へ入れない箱庭の少女は不憫な未知に頑張れ、頑張れと応援する以外できない。


 それがとてももどかしい。


 やがて、死期が背後に迫り焦燥に胸を鷲掴みにされると未知は次第に自棄じきになり始めた。



『辛いの……何でこんなに苦しまないといけないの?』


 日に日に体が病に蝕まれ固くなっていく身体は、心も蝕んでいく。

 

『頑張りましょう』


 嘆く未知をなんとか力づけようと声をかける医師。


『薬やリハビリはあなたを少しでも長く……』

『長く? 長く苦しめって言うんですか?』



 そこに希望も救いもない病気との闘い。

 それは幼い少女にはあまりに酷な運命。










『もうイヤッ!』



『いくら頑張ってもどうせ動かなくなるんだよ!!』

『』


 幾らリハビリをしても少しずつ動かなくなる身体。

 昨日はできていた事が今日はできなくなっている。



『どうして私は生まれてきたの……どうしてお母さんは私を産んだの?』



 病院の中だけの色褪せた意味を見出せない人生。

 だから未知は呪詛じゅそを吐く他になかったのだ。



『こんなんなら生まれてこなきゃ良かった!!』



 少女にはなぜか未知の辛さが、苦しみが……傷が痛い程わかった。


 だけど世界に目を閉じ叫ぶ未知は気づかない。


 未知の心の傷から膿のように出た己の人生への憎悪の叫びが自分だけではなく周囲も傷つけていただと……


 父が、母が、未知の吐き出す苦しみに言葉を掛けられず苦渋の表情で愛する娘を悲しげに見守っている。


 何もしてやれないと傷ついているのは両親も同じ……


 少女も見ているしかできないから分かる。



 この両親の辛さ、苦しさを……彼らのやり場のない悲しみを……



「気づいて未知……傷ついているのは貴女だけじゃない」



 しかし、箱庭の少女の叫びは届かず赤い扉は無情に閉じた。



「どうしたら」



 傍観者の少女に出来ることは何もない。


 それがとてもやるせなくて小さな胸をぎゅっと締めつける。



 その時、光の柱の中央付近が急激に明るくなった。



「何かしら?」



 天から地へ真っ直ぐに伸びる光の線に沿って、ひときわ強い光の点が徐々に空から舞い降りてきていた。


 この箱庭世界で何かが起きている。

 気が付けば少女は駆け出していた。


 何かに急き立てられるように石畳の街路を裸足はだしで走る少女。

 彼女の行く手には、もう赤い扉は姿を現すことはなかった。



「はぁ、はぁ……ここは?」



 息を切らせて走り建物に挟まれた街路を抜け出すと、少女の目の前に広がったのは大きな丘陵きゅうりょう


 一瞬、街を……箱庭世界を飛び出したのかとも思った。


 しかし、光の柱を目指し丘陵を登って頂上に到着した少女の眼前に広がる景色にそれは考え違いであると悟った。


 この大きな丘陵は周囲をぐるりと建物で囲まれており、ちょうど街の中央に位置しているようだ。



「こんなに大きな街だったんだ」



 果ての果てまで建造物がひしめいており、終わりがまるで見通せない。


 しかし、この大きな街に、あの数多あまたの建物の中に、誰も住んでいないのだと少女には何となく理解できた。


 ここは少女の、少女の為の、少女しか存在しない箱庭の世界なのだから。



 その少女の為の世界にあって丘陵へと注ぐ光は何処か異質だ。



「きっとこの中に答えが……」



 眼前の強い光に畏敬の念が湧いて中へ飛び込むのを躊躇ためらったが、少女はそれでも一歩を踏み出した。

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