学問所、2

みんなが一斉にソテツの樹の横に立っている紅を見る。

ニコニコとしてその視線に応える紅。

あっけに取られた一瞬の後、二人の少年が裸足のまま庭に飛び出し、紅の頭を押さえつけた。


勝之進と大吾だ。


二人の少年は、紅の草履を脱がせその場で正座をさせると、紅を庇うかのように前に正座した。


「申し訳ございません」


二人が揃って頭を下げるものだから、紅も倣って頭を下げた。

が、藩主は庭近くまで寄って来ていた。


「そのほうは?」

「はっ。わたくしの妹にござります」


勝之進が答えると、紅に向き直って、

「馬鹿者。殿だぞ」

小声で言いながら、更に紅の頭をぐいぐい押さえつけてくるから、紅の額は痛い程地面に押し当てられてしまった。


「ほう。では……」


瀬戸が横を見ると、片膝で座している栗林が答えた。


「はい。私の娘にございます」


家老は藩主を見て余裕たっぷりにうなずく。

藩主も口の端を上げ、その意図に気付いたかのようだった。


「紅。名を名乗りなさい」

父に言われ、紅は顔を上げた。


「家老、栗林義正が次女、紅にござりまする」


額に泥はついていたが、凛とした声、堂々とした態度、それに活き活きとした目をした紅に藩主も笑顔で応える。


「紅とやら、学問所に来たいのか?」

「はい。私もみんなと一緒に学びとうございます」

堂々と答える紅。


「そなたは女子おなごじゃろう。ここは男子しか入れんのじゃなかったかな?」

「そうなんです、殿様。どうして女子は学んだらいけないのですか?やる気がない者が学んでも身にならない。と、父はいつも申しております。ならば、女子でもやる気がある者が学んだ方が良いと思うのですが」


本気でそう思ってる紅は、その可愛らしい唇を引き結んで、分からないという感じで首を傾げている。


それを見た藩主は家老を見て、息子を見て、また家老を見て、

「はっはっはっ」

大声で笑い始めた。


「まこと、紅の言う通りじゃな。やる気のない者はやっても無駄じゃ。なぁ伊三郎」


伊三郎は唇を噛みしめ紅を睨んだ。


「伊三郎。紅に代わってもらうか?」


念を押すように聞いてくる父親をキッと見返し、

「女子になど代わってもらえませぬ。私が学んで、きっと父上のお役に立ちます!」

堂々と言い返し、更に父の腕から逃れ、栗林を真似して藩主に片膝をついた。


それは藩主の息子であるという立場から、藩主や次期藩主となる兄に対して、伊三郎は家臣となる立場をはっきりと意識した行為だった。

藩主・瀬戸は何度もうなずいて息子の成長を喜んだ。


「この伊三郎をワシの息子と思わず、生徒の一人として扱ってもらいたい」


伊三郎が仲間に加わり、めでたしめでたし。となるはずだが一人だけ浮かない顔をしている者がいた。


紅だ。


「殿様!」

立ち去りかけた藩主を庭先から紅が呼び止めた。

「私も学問所へ入れてください」

びっくりするぐらいの大声で、必死に訴える紅。


慌てたのは勝之進と大吾。

紅を背中に隠すように座り直す勝之進と、紅の頭を腕全体で包み下げさせている大吾がいた。


伊三郎はその光景にチクリと胸が痛んだ。


勝之進は先日の宴で紅の兄だと知っている。

だが、もう一人の紅に馴れ馴れしく触っている男は誰だ?

紅を挟むように地面の上に正座している二人が、何か特別な仕事をしているように思える。


「じゃがのう、紅。学問所はこれまで女子はおらんのだ」


藩主に代わり栗林が答えた。

藩主の方をチラリと見ながら。

藩主もそれに気づき目を細める。


「父上!紅は蘭学らんがくとやらを学びたいのです。西洋の文化を学んでお役に立ちたいのです!」


今日、この学問所の中で、誰よりも熱い志を語ったのは、図らずもこの瞬間の紅だった。


それに追い打ちをかけるように、もう一人庭に飛び出した者がいる。

伊三郎である。


勝之進や大吾の前に、バッと袴をさばいたかと思ったら綺麗な正座をして、藩主へ頭を下げた。


「父上。わたしもこの者と一緒に学んでみとうございます」


その姿はさっきまで我儘を言っていた藩主の息子と同一人物には思えないくらいしっかりしていて、一瞬目を細めた藩主は隣の家老にだけ聞こえるように話しかけた。


「なかなか良い目をしておる。のう栗林」

「はい。見事な座り方。殿にそっくりでございますな」

「うむ。亡き父に反抗した時を思い出した」

「先代も殿の押しに負けて、学問所をお創りになられましたな」


目を閉じた藩主と、何度も肯いている家老。

二人にしか分からない歴史を思い出すように。


「たぬきめ」


目を開けた藩主が家老を見てつぶやくと、家老は策が成功したときの笑みを見せる。


「みなのもの。紅も仲間にしてやってくれぬか?」


こうして紅は藩主の許可と共に、女子として初めて、そして唯一の女子生徒として学問所へ通うことになった。

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