学問所

そのような日が続き、大吾と勝之進と紅の三人はよく栗林家の書庫で勉強をしていた。

紅は二人が帰ってくるのが楽しみでしょうがなく、栗林家の隣りにある藩の学問所へコッソリ見に行くこともあった。


庭の小道を少し離れ、生垣の隙間を地を這うようにしながら通り抜け、松林を迷うことなく進めば、そこにある大きな建物が学問所だ。

梅雨の晴れ間のこの日も、着物の裾を汚しながら紅が学問所へ忍んで行ってみると、いつもとは違う張りつめた雰囲気。


いつもはもっと自由な雰囲気なのに、

「お着きになったぞ。全員、控え!」

バタバタと足音が聞こえた後に、建物の中がシンと静まりかえった。


おかしい。

昨日、父さまが「明日の学問所は珍しいものが見られるぞ」と言っておられたのに。

大きく開かれた障子の向こうに、上座に向かって全員が頭を下げている。

初めて見る光景だった。


もっとよく見ようと広間のすぐ横に植えられているソテツの樹の影まで近寄ってみた。

その音で気が付いたのか、一番末席に座っていた講師が振り向き、紅の姿を見つけると、その目を丸くし、シッシッとまるで猫でも追い払うかのような仕草をする。

いつもなら紅の姿を見ても「また来ておったのか」と笑っている講師なのに。


紅はむくれた。

何も言わずに追い払うとは、ひどい仕打ちだ。


怒っているという顔をしてみせるけど、いつもの講師も変な顔をしてシッシッを速めてくる。

紅も負けじと変な顔をしてみせる。

こうなったらどちらの顔がより変か、競い合うように紅は変顔をしてみせた。


「殿のおなりでございます」


大きな声がして、びくりとした紅が講師を見ると、もう講師は変顔合戦をやめたようで、みんなと一緒になって頭を下げている。


ソテツの樹の間からそっと奥を見てみると、身分の高そうな男の人が入ってくるところだった。

その後ろには先日、お城で遊んだ伊三郎がいる。

伊三郎に付き添うように入ってきたのは紅の父、栗林。


「皆のもの、おもてをあげよ」

「今日はワシもただの父親として来た。子息を通わせている栗林が羨ましくての。いつもどのように皆が学んでおるのか知りたいのじゃ」


偉そうでもなく、どちらかと言えば親しみやすそうな顔をして上座に座っているのが、平賀藩の藩主・瀬戸 行正ゆきまさ

一見温厚そうに見えるが、藩の改革を成し遂げ、この学問所を建て若者たちの育成に取り組むなど有言実行の姿は、藩のみんなから尊敬されている主君だった。


「それではまず、年少の者より、漢詩のご披露をさせていただきまする」


少年たちが一人一人詩を言い始めるが、いかにもこのために練習しましたという感じに仕上がっていて、欠伸が出た。


退屈に思った紅が帰ろうかとしたとき、

「では、これより武術の成果をご披露いたしまする」

これまで全員が前を向いてすわっていたのに、突如半分から分かれ、真ん中にすっぽりと空間が広がった。


先ほどの学問の発表の時とは打って変わって、生徒たちは楽しそうに武術を披露する。

いつもの学問所の雰囲気。

笑い声や、囃し立てる声、紅も堪え切れず参加してしまっていた。


「殿。いかがでございますか?」

栗林はそっと藩主に話しかける。


「あぁ。中々に良い雰囲気じゃ。この者たちなら将来の平賀藩を任せられよう」

「中の数名、秀でている者たちを長崎で学ばせたいと思っております」

「良い案じゃ。我が平賀藩は小さい。このままだと時代の流れに消されてしまうかもしれんからの。有能な人材は藩の宝だ」

「はい」


そんな会話がなされている最中も、白熱の試合は続いていて、

「赤の勝ち!」

最後の試合が決着したところだった。


「見事であったぞ」

藩主は立ち上がり、少年たちの真ん中まで来ると、その顔を一人一人見渡す。


「このまま切磋琢磨し、将来は藩のために尽くしてほしい」

「はっ」少年たちは嬉しそうに答えた。


「伊三郎。これへ」


突然、藩主に呼ばれた伊三郎はのっそりと立ち上がり中央に向かったが、イヤそうな顔を隠そうともしていない。


「これは伊三郎と申す。明日より皆と一緒に学問所に世話になる。よろしく頼む」


みんなが「はっ」と答えようと口を開けた途端、


「イヤでございます」

伊三郎の声に、みんなは口を開けたまま固まった。


「なぜ私もここに来ねばならぬのです。これまで通り栗林や、大瀬が教えてくれれば良いではありませぬか!」


驚いた者達の視線が伊三郎に集まり、それに気付いた伊三郎が逃げ出そうとするから、藩主・瀬戸は息子の腕を掴んだ。


「藩主の息子とて学問は必要じゃ。そなたも助けてくれる友が欲しいじゃろうに」

「イヤじゃ。こんなところにいとうない」


伊三郎は城に戻りたい一心で、父の手を振り払おうとしている。


瀬戸に同情するくらい伊三郎が嫌々している膠着状態を破ったのは、


「ならば、私が代わりにまいりましょう」

外から聞こえてきた少女の声だった。



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