勉強部屋

勝之進が嫌がる大吾を引っ張るようにして帰宅すると、

「兄さま!おかえりなさい」

紅が外門まで出て待っていた。


「ただいま。そんなに待ち遠しかったのか?」


勝之進が笑って近づくと、紅は嬉しさのあまり勝之進と大吾に走って行き、自分よりも大きな二人の少年を両手で掴むと精一杯の力で引っ張った。


「早く。早く。大吾と兄さまに見てもらいたいものがあるのです」


紅に急かされて、草履を脱ぐのもそこそこに勝之進と大吾が広間の横の部屋に行くと、


「なんだこの部屋は……」


普段は入ったことのない板敷きの部屋に、文机と座布団が3組用意されていて、更に圧巻なのは壁際一面にずらりとある棚には、本がぎっしりと並べられていた。


大吾は吸い寄せられるように本棚に近づき、何冊かの本を手に取ってみる。

「見ろ、勝之進。蘭学の本だ」

「父さまがくれたのじゃ」

紅が嬉しそうに言う。


「はっはっはっ。紅にやったのではないぞ。自由に使えと言うただけじゃ」

「父さま!」


部屋の外に現れた父に、嬉しそうに飛びつく紅とは対照的に、


「ご家老」


袴の裾をサッとさばき見事な正座をして挨拶をする大吾は、とても少年には見えなかった。


「父上。よろしいのですか?」

勝之進も正座をして父を迎えると、どっしりとした歩き方で上座にあぐらをかいた栗林が隣に紅を座らせた。


「今日はゆっくりしようと思うておったのに、紅に付き合わされたわ」

「母さまがお忙しそうだったから、父さまにお願いしたの」

「もうすぐ殿がお戻りになるから、父も忙しかったのじゃぞ」


悪びれもなく言う紅に、ワハハと笑いながら答える栗林。

勝之進は、娘を溺愛している父を大吾に見られるのが少し恥ずかしかった。


「父上。紅の遊びに父上までもが付き合わなくとも……」

「いや、違うのじゃ勝之進。紅が学問をしたいと言いだしての。少し算術を教えてみたら、これが驚くほど吞み込みが早くて驚いたのだ」


嬉しそうに大きく頷いて見せる栗林だったが、次の瞬間その顔から優しさが一瞬で消えた。


「江戸に近い港に異国の黒船が現れた事、おまえも噂ぐらいは聞いてるな?」


急に振られた世の中の情勢に、勝之進と大吾は「はい」と前かがみになった。


「幕府は鎖国か開国かで割れておるようだ。これまでにはあり得なかったこと。時代が変わっていくのかもしれん」


「勝之進。これからは人じゃ。家柄が良いだけではもう政事はやっていけん。有能な人間でなければ迫りくる問題を超えては行けん。おまえを助けてくれる有能な人間を見つけよ」


栗林はそう言うと、勝之進の後ろに座っている大吾に目を向けた。


「大吾とやら。おまえの噂は聞いておる」

「恐縮でございます」


頭を下げる大吾にニヤリと栗林は笑った。


「おまえらの悪行も知っておるぞ。林先生が嘆いておられたからのう」


ちらりと目くばせをした勝之進と大吾。


「父上。何のことやら、私たちには身に覚えがありませぬ」

「ほう。では舟を勝手に漕ぎ出し一つ沈ませた話も、おまえらには記憶にない程 些末な話なのだな」


ワハハと愉快そうに笑う栗林に、勝之進と大吾は下を向くしかなかった。


「大方、長崎に行こうとしたのじゃろう。そんな手を使わずとも知恵を使え。留学のためと言えば藩も許そうに」

「父上。ですが、大吾は……」


大吾は身分が低く、留学できるほどの後ろ盾もないと、勝之進は口に出しそうになった。

それを察した栗林は大吾に目を向けた。


「大吾。歳はいくつになった?」

「十になりました」

「ほう。まだそんなに幼いのにもう立派な物腰じゃ。優秀な人間はその座り方だけで分かると言うたは、誰じゃったかのう」


栗林の目の前には、しっかりと栗林を見ている大吾がいる。その目に希望しか映してない真っ直ぐな少年を栗林は嬉しく思った。


「大吾。これからも勝之進の友として、二人で切磋琢磨していってほしい。いずれ世の中は変わっていく。その時必要になるのは知恵じゃ。知識ではない。知識は有って損はない。だがその知識を使いこなす知恵がなくてはならん。良いか。よく学び、考えるのじゃ。そうすればワシが悪いようにはせん」


大吾は口を引き結び「はっ」と言うと共に、この栗林の言葉を心に刻んだ。


「そこでじゃ、大吾に仕事を頼みたいんじゃが。なに、学問所からの帰りで良い。少しばかりうちに寄り、この紅に学問を教えてもらえんか。もちろん給金は出す」


「え?」と栗林の方を見た大吾の目に飛び込んできたのは、嬉しそうな紅の顔。

目をキラキラ輝かせてこちらを見ている。


「先程、紅に算術を教えながら考えたのじゃ、これからの時代は女性も学問を習っても良いのではないかと。知っておいて損はない。また嫁いでいった先の留守を任されることもあるだろう。そんな時に軽率な行動をしない為にも、必要なのではないかと……」


歯切れの悪い栗林に気付いた勝之進。


「母上は何と?」

「あれは反対しおった。必要ないと一刀両断じゃ」


やはりと勝之進は思った。

家老でありながら栗林は家向きのことは全く関しておらず、妻の言うがままだった。


「そこでじゃ、ワシは実験してみようと思うた。紅に学問を教えて、それが上手くいけば女のための学問所もあり得るのではないかと。勝之進、大吾、おまえ達に紅の先生役を頼みたいのだが」


大吾は女に学問なんてどう教えていいか分からないと困ったが、家老の頼みを断る訳にもいかず、「はぁ」と渋々受けた。


「その代り、この部屋にある書物は好きなだけ読め。これからのおまえ達を必ず助けてくれよう」


栗林が立ち上がると頭を下げて見送った勝之進と大吾は、足音が遠ざかった途端、顔を見合わせた。

そうして次に見たのは紅。

紅は二人の視線を受け止めニコリと笑った。


「よろしくお願いします。先生方」


嬉しそうに八重歯を見せて待っている紅に、二人の少年は諦めるしかなかった。

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