栗林邸、居室
それからというもの、紅は婚礼ごっこをして遊ぶのが好きになっていた。
いつも相手をさせられるのは、兄・
名前こそ勇ましいが、闊達な姉とお転婆な妹に挟まれて、少しばかり優しい気性の兄。
「兄さま、早く座ってください」
「紅。今日は学問所に行かなければいけなくてね……」
「学問所は昨日も行かれてたではないですか」
「いや、昨日行ったから今日行かなくていいってことはなくてね……」
紅の押しに負けて座布団に座らされた勝之進は、誰か助けに入って来てくれないかと、開け放たれた障子の向こうばかりを見ていた。
「兄さま、早くさかずきを持ってください」
「あ、う、うん。でもね、紅……」
勝之進が立ち上がりかけた時「失礼します」と女中の声がした。
「勝之進様、ご学友がおみえですが……」
「すぐに行く」
「兄さま!」
兄の喜びようを敏感に感じ取った紅が脹れるも、勝之進は
「ごめん。戻ったら遊んであげるから」
適当な返事をして駆け出していた。
「待たせたな」
「いや」
勝之進が玄関に行くと、あどけない顔立ちながら目鼻がスッと整った一人の少年がいた。
低い声は落ち着いていて聞こえが良く、堂々とした言い方や態度に一目でこの少年が才能を持った者だと分かる。
「
少年の名前は大吾。
勝之進より一つ年は上だが、勝之進と同じ頃に学問所に入った。
大吾の実家は、半分は農業をやりながら何かあれば侍さむらいとしての仕事も務めるという身分の低い家。
だが大吾の才能を評価した周りの大人たちが、学問所へ行くことを勧めた。
平賀藩家老家の長男・勝之進とは、身分こそ違うが二人は話が合うらしく、よく競い合っている。
大吾が微かに口元を上げる。
「何かあったのか?」
「ちょっとな。ちょうどおまえが来たから逃げてこられたんだが、参った」
草履を履きながら抱えた書物を夢中で確認している勝之進に、更に笑みを深めた大吾が言う。
「逃げてきた?」
「そうだ。あいつの遊びに付き合うと終わりがないのだ。戻ったら付き合うと言うて出てきた」
「そうか。戻ったら付き合うんだな」
いつもより優しげに言う大吾を不審に思った勝之進だが
「でまかせじゃ。そうでも言わんと離してもらえなかった」
「それはいかん。男たるもの約束は守らんとな」
「それはそうじゃが……」
「ところで勝之進。おまえの後ろにおる雛人形みたいな子が、おまえの約束の相手か?」
「えっ」
ぎょっとして振り向いた勝之進のすぐ後ろには、目に涙をいっぱい湛えた紅が立っていた。
「紅。ついてきたのか?」
「兄さまは、もう私とは遊んでくれんのじゃな」
「違う。そうは言うておらん。これは…何と言うか…言葉のアヤじゃ」
「そんな難しい言葉は紅には分かりません」
そっぽを向いた妹に慌てふためく勝之進の姿がおかしくて、大吾は声を出して笑っている。
「何を笑っておる。気付いていたなら言うてくれたら良かったのに……」
八つ当たりした勝之進に、笑いながら「すまん」と謝った大吾は、
「紅殿。兄上は俺が責任を持って連れて来よう。それまで兄上をお許しください」
いまだにふくれっ面をしている紅に語り掛けた。
「そんなことを言うて兄さまはいつも逃げるのじゃ。紅も学問所に行きたい」
ついに紅は泣き出してしまった。
姉がいなくなった心細さも加わったんだろう、袖に隠れてシクシク泣く紅が可愛そうになった兄は、
「紅も学びたいのか?」
小さな頭に優しく手を置いた。
「うん」
「それならばちゃんと母上に相談して来い。お許しが出たなら俺たちが戻ったら、おまえの先生になってやろう」
「待て。俺たち?俺もか?」
「当たり前だ。その方が俺たちの復習にもなるし」
紅を泣かせた責任は大吾にもあると、勝之進は思っていた。
「だが……」
大吾が反論しようと口を開けば、袖を引く小さな手。
「おししょうさま。お願いします」
うるうると光る瞳が、神妙な顔つきで下から見上げている。
その澄んだ瞳にドキリとした大吾。
「お、俺の名前は大吾だ。お師匠さまとかでは、ない……」
若干怒ったかのように眉を寄せた。
「分かった。大吾。待っておるぞ」
嬉しそうな顔で大吾を見る紅。
大吾は紅の瞳を見返すことができなかった。
「か、勝之進。先に行くぞ」
「大吾、おまえ、なんでそんなに頬が赤いんだ?」
歩きながら覗きこむ勝之進を、
「うるさい」
退けた大吾は、自分でもこの苛立ちの正体が分からなかった。
ただ授業の間中、紅の嬉しそうに笑った顔を何度も思いだしては、眉間を寄せるしかなかった。
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