海に消えた水晶

 白い波が踊っている。荒れた海の波音を聴きながら、一織は岩場に腑抜けたように立っていた。時折、岩にあたって砕け散った波しぶきが飛び靴を濡らす。

 ひときわ高い波が一織の立っている岩の表面を舐めた。怖い、とも思えなかった。もう、どうなってもいいや。そんな風にさえ思えてしまったのだった。


 ――ああ……俺、本当に祐のこと……


 首筋に手をやると、細い革紐に指先が触れた。祐が、二つ買ってしまったからとくれた小さな水晶――。一織、肌白いからネックレスにしたら似合うよ。そう言って見せた祐の屈託のない笑顔が、一織は本当に好きだった。そう、祐の笑顔が、祐のことが好きだった――。


「そんな、やつよりも。俺の方が好きなのに――」


 ぽろぽろと、知らないうちに涙がこぼれて頬を伝っていた。祐がくれた水晶みたいにどこにも、誰へも吐き出すことのできない感情が混じったそれは、北から吹いてきた冷たい風に吹き飛ばされ、沈みそうな夕陽の光を受けて輝いた。

 首から外し、革紐をつまんで光にかざした水晶の模様が揺れる。


「ねえ、祐……なんで…俺じゃ、だめ…なの………っ」


 震える声は岩に砕け散る波の音にかき消された。知ってる。俺じゃだめなんてことは知ってるよ。だって、俺は男だから……。それでも、その問いを口にせずはいられなかった。

 後から後から涙があふれ、喉がひくひくとする。一織は手のひらで口を押さえた。指の隙間から抑えきれない嗚咽が細く漏れて、夏の湿った空気に溶けていく。


 ぽつり、ぽつり

 額に冷たいものを感じ、手を空にかざす。大粒の水滴が手のひらに落ちてきた。にわかに風が吹き始め、海は一層荒れる。

 それでも、一織はその場を離れなかった。雲に覆われた空を放心したように見つめ、彼の名を呼んでいた。

 あの日の祐の声が、しぐさが脳裏によみがえる。

――そう、俺の絵を好きだなんて言ってくれたのは祐だけだった――。




「あ、一織。待った? 一緒に帰ろ」

「ううん、俺も今終わったところだから。待ってないよ」


 本当は、美術部は早く終わっていて二年五組の下駄箱の前で待っていた。けれど、祐と一緒に帰ることができるなら五分でも十分でも待つのは苦にならない。一織は笑顔で言った。


「吹奏楽部って、いつも長くなるんだよな……。あれ、それって一織が描いた絵?」


 そう言って祐は一織がわきに抱えているビニール袋に包まれた紙キャンバスに視線を向ける。思わず一織は絵を背中に隠した。綺麗に色塗りすることが苦手な一織の絵はいつも抽象画のようになってしまう。だから、いつも父に下手くそと罵られていた。


 今回は風景画だから良いものの、美術部の癖にと祐が見たら失望するだろう。それは、嫌だ。何と言われるかと、一織は身を固くする。


「見せてよ。俺が美術の成績悪いって知ってるだろ。少なくとも俺よりは上手いんだしさ」


 一織は、しぶしぶながらも絵を祐に見せた。


「――綺麗じゃん、本物の空みたい。草原のところも、いろんな緑ですごく丁寧に描いてある。…好きだよ、一織の絵。ほんっとうらやましいな、絵が上手いって。俺、美術の成績最悪だから」


 そう言って祐は笑った。モンゴルの草原を描いた絵は、風景を塗るのに非常に時間がかかったのだ。特に、草原は一番大変で何度も失敗しそうになった。こんなに細かいところまで気づいてくれたのは顧問の島内先生と祐だけだ――。


「そんなことないよ。木田さんとかすごい光の反射を再現したリアルな絵を描くから」


 木田美咲の絵は、レンガの上でむかれているリンゴの皮を壁に見立て、果実をモノクロで、皮を真紅で描いたものだった。どこから見ても、本物のリンゴの皮に見える。絵のコンクールで金賞を取ったこともあったはずだ。


「あ、木田さんの絵知ってる。……でも、俺は一織の絵が好きだよ。柔らかくて、こっちまで温かい気持ちになるから」


 そう言って、祐は絵の中の馬を指した。


「この馬とかさ。すごく生き生きしている。毛並みにまで丁寧に描いてあってすごい」


 そんなところまで見てくれていたなんて。一織の胸に形容しがたい暖かいものが流れ込んできたような気がした。




――好きだよ、一織の絵。


 祐の声が、遠くから聞こえてきたような気がした。

 自分も、絵が好きだというように、祐に好きと言えば良かったのだろうか。


「無理だよ。無理に決まってる……」


 力なくつぶやいた声はすぐに波音にかき消される。言ったところで、どうなる。悩ませて、気を使わせて、迷惑をかける。いや、それ以前にもう自分とは話してもらえなくなるだろう。

 こんな気持ち、誰も理解なんてしてくれないんだから。それが、祐であったとしても。


 もしかしたら、その時だけは考えてみると言ってくれるかもしれない。けれど、受け入れてくれることはなく、お互いに気まずくなるだけに決まっている。

――好きだよ、一織の絵。

 もう一度、祐の声が脳裏で反すうされる。


 もう、祐は一織の絵を好きだと言ってくれることはないだろう。美穂先輩も美術部で、一織に似た柔らかいタッチの絵を描くから。しかも、一織の絵と比べたら、技術の差が一目瞭然だ。


「さよなら、祐……」 


 祐と一織を結ぶ、よりどころのような水晶。一織は革紐を指から離した。ぽちゃんと微かな音がして、水晶は一瞬きらりと光り荒波の中に消えていく。


 ――大好きだったよ、本当に。俺の絵を好きなんて言ってくれたの、祐しかいない。でも、もうそれもおしまいだね。


 ――このまま、落ちちゃってもいいかな……。


 底の見えない海を覗き込み、一織は思ってしまった。

 どうすればいいのだろう。誰も、理解なんてしてくれない。理解しようともしない、この気持ちを。


 ずっと、祐のことが好きだった。中学に入った時から。


 それでも、一織はその気持ちを認めようとはしなかった。


 ――これはいけないんだ。おかしい、ことなんだ。だから、好きになっちゃ、だめなんだ。


 けれど、何もないことにはできなかった。一度自覚してしまうともうだめだった。

いつか、気づかれるんだろうか。もうお前とは話さない、そう言われる思うと、夜も眠れなくなった。怖かったのだ。

 睡眠不足とぐちゃぐちゃな感情のまま毎日を過ごした。当然、授業も集中できず忘れ物も目立つ。先生は心配したけれど、それは一織の行動に対してだけだろう。


 その奥底に何があるかなんて、誰も気にしなかった……。

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