覚さん
「おい。危ないぞ、こんな時に。早く帰れ」
いきなり肩を強く引かれて、一織は体勢を崩した。
「なに、誰……」
振り向くと、長身の男性の整った顔が目の前にあった。その顔は、驚くほど祐に似ていた。
「あ――」
思わずその場にうずくまった。その顔は、驚くほど祐に似ていたから。
「帰りたく、ない……帰らない。どうせ、家に帰っても父さんに殴られるだけだから。帰らないよ……」
「――とりあえず、こっちに来な」
冷え切った体に、彼の掌が妙に暖かく感じた。
崖を上ったところに、彼の家はあった。
「こんな荒れている時に、何かと思ったんだ」
そう言って、彼は大きめのタオルを持ってきた。
「今風呂入れてるから、とりあえずこれで体拭いときな」
温かい部屋に体温が慣れてくると、途端に歯ががちがち言い出した。タオルでずぶ濡れの体を拭き、そのまま膝を抱えて座り込む。しばらく沈黙が続いたのち、彼が声をかけた。
「ねえ、君名前なんて言うの? 背高いけど高校生?」
「中学生……一織です……数字の一に織物の織。」
「一織君かー。いい名前だね。お風呂入ってきなよ。髪、塩がついてる」
そう言って塩を取ろうとしたのだろうか、彼の指に髪が引っかかり、そのまま頭をくしゃくしゃと撫でられた。こんなことされたの何年ぶりだろう。心臓の音がやけにうるさいのは不意打ちのせいだ、と一織は思い込むことにした。
「っ……」
石鹸を泡立てて体を隅々まで洗う。湯船に浸かると、今までで一番温かい湯に思えた。一織は久しぶりに手足を伸ばして顎まで湯に浸かった。――どうしよ。こんなに良くしてもらったのに、俺には何もできない。
「やっぱり最低だ、俺」
祐に彼女ができたのに、祝ってやれない。何かしてもらってもこちらからは何もできない。ああ、こんな俺生きている価値あるんだろうか。
服が濡れていたのでバスタオルを体に巻き付けてリビングのドアを開けた。
「あ、俺の服着といて。サイズ合わないかもしれないけど」
そう言って彼は綺麗にたたまれた白の開襟シャツとスラックスを指した。
「中学の時の夏服があってさ。多分一番小さい服。ごめん、まともなのがなくて」
開襟シャツ――一織の中学校の制服と似ている。ああ、制服姿の祐、格好良かったな……。日に焼けた小麦色の肌に真っ白なシャツが似合っていた。
なんでこんなこと思い出しているんだろう……。思い出したって、意味なんかないのに。これからどんどん、彼女と過ごす時間が増えていくんだろうな。
――美穂さん真面目だけど、話は一織の方が面白いよ。
取り繕うように言った祐の声がよみがえる。
――だったら、俺を選んでくれたら良かったのに。
でも、そう思っても仕方ないことなんて自分が一番分かっている。だって、一織は男で。だから、祐には友達以上に見てもらうことなんてありえないんだから。十分すぎるほど分かっているはずなのに、どこかこの日常がずっと続いていくのだと無条件に信じ込んでいた。
そんなわけ、ないのに。
「一織君、だよね」
彼の声で一織は我に返った。
「ごめん、人には聞いたくせに自分のことは何にも言ってなかった。俺は、覚洋平。今高三」
高校生とは思えないような落ち着いた雰囲気に一織は少し面食らう。
「親がいつも仕事で家を空けているから、週末の間はここにきているんだ。来客なんて珍しいよ」
覚さんはそう言って楽しそうに笑った。――そこに、一織は無意識のうちに祐の面影を重ねてしまう。違う、今前にいるのは覚さんだ。祐じゃ、ない。一織は邪念を振り払うようにぶんぶんと首を振った。
「どしたの?」
「何でもない……」
「一織君かあ。そっか。綺麗な名前だね」
「そんなことないです。綺麗な名前なんかじゃない」
だって、俺は。祐のことが好きで。つまり、男が、同性が、好きということで。
「全然、綺麗じゃない……ねえ、覚さん。俺のこと、気持ち悪いって思いますか? 大好きだった。同性の、幼馴染のことが。本当に、大好きだった。祐のことが。――ねえ、なんか言ってよ。俺、男が好きなんだよ。――同性愛者なんだよ!」
ああ、俺はさっきから何を言っているんだろう。こんなこと言ったって、覚さんは困るだけなのに。一織は顔がゆがむのをこらえきれなかった。そのまま、目の前の覚さんの胸をこぶしで何度も叩く。
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