老人と岬

僕はバスに乗っている。初老の男と一緒に海沿いの田舎道を

旅している。その男は僕の知り合いかもしれないし、

旅先で偶然隣り合っただけの、あかの他人なのかもしれない。


あけ放ったバスの窓から、潮のかおりがする暖かい風が

入ってきて心地よい。窓の外には黄色い菜の花畑が

何処までも続き、その奥には青い海が穏やかに広がっている。


「冷たい飲み物はいかがですか~、冷えてますよ~」

紺色の制服を着た車掌がラムネやファンタ、チェリオの

瓶が入ったケースを持ってバスの車内を回っている。

いくらなのかと聞くと、サービスだという。


僕がチェリオのオレンジ味を頼むと、車掌は氷水が入った

箱から1本取り出し、手ぬぐいで瓶の水滴を拭きとると、

栓抜きで手際よく蓋を外した。シュポッという軽快な音をたて、

ふわりとした白い煙がゆらめき、瓶の中で小さな炭酸の泡が

無限に湧いて出て、上へ上へと立ちのぼっている。


「おめでとうございま~す。当たりが出ました~」王冠の

裏の【あたり10円】という文字を見せながら車掌が言った。


「ラッキーだね。今日はいいことが起こるよ」横に座る

その初老の男は、静かな笑みを浮かべて僕に言った。


チェリオの瓶に触れると、指先が痛くなるくらいキンキンに

冷えていた。僕はひりひりする強めの炭酸を、喉の奥に

感じながら一気に飲み干した。ふと窓から外を見ると

岬の端まで来たのか、小さな白い灯台が高台の上に

ひそっりと建っているのが見えた。


しばらくすると、キーーっとブレーキがきしむ音がして

バスが止まった。「終点で~す。ありがとうございました~」

と車掌が告げるとバスの扉を開けた。


僕たちはバスを降りると、あてもなく辺りを散策した。

しばらく歩いていると、学校のグランドのような場所に出た。

ブランコや鉄棒などの遊具があり、赤や黄色の塗装は

もうほとんど剝げ落ちて、真っ黒に錆びた鉄の地肌が見える。

校舎は木製で、そこに塗られた白いペンキもすっかり剥げ、

木も朽ちており今にも壊れそうだった。

もうすでに廃校になって誰も使っていないのかもしれない。


突然、どこからか大きな柴犬が駆け寄ってきて

僕に飛びかかってきた。嬉しそうに尻尾をブンブン

振っているので危険は無さそうだ。遊んで欲しいだけ

なのかもしれないと思い、僕は持っていたチェリオの

王冠をポケットから出すと、なるべく遠くに放り投げた。

するとその犬は土埃をあげながら、すごい勢いで

その王冠めがけて一目散に駆けていった。


投げてからそれが10円の当たり付き王冠であったことに

気がづいた。犬が王冠を咥え、こちらに戻って来ることを

期待したが、柴犬はそのまま走り去って行ってしまった。


僕らはまたブラブラと辺りを歩いていると、香ばしい

ニオイが漂ってきた。見回すと小さな屋台があった。

手書の看板には【名物・大あさり】と書かれており、

白いかっぽう着姿の、おばあさんがハマグリのような

巨大な貝を、網の上で炭火焼きしていた。

その大きなあさりを見ていると、網の上でカタカタと

細かく揺れ始め、まるで僕らが見ているのを察し、

見計らったように、突然パカッと口を大きく開いた。


僕らが注文すると、おばあさんは貝の中に醤油を垂らした。

ジューッという音とともに、香ばしいにおいがひろがる。

僕たちはあっという間に大あさりを、あるだけ全部平らげた。


気づくと周りは夕闇に包まれ、空は真っ赤に染まっていた。

僕は急に不安になり「もうそろそろ帰ろうよ」と男に言い、

バス停の時刻表を確認した。しかし今日の最終バスは

すでに出てしまっていた後だった。


「困ったな」とつぶやくと、男は「旅なんてそんなもんだよ」

と余裕の笑みを浮かべながら、ズボンのポケットに手を入れ、

小さな紺色の箱を取り出した。


「なんですかそれは?」と尋ねると、初老の男は「煙草だよ、

君も吸うかい?」と答えながら器用な手つきで、その小さな

箱から1本抜き取り僕に差し出した。


端の切られたフィルターのない短い煙草だった。僕が手に

取ると、ふにゃふにゃと柔らかく折れそうな感じがした。

「においを嗅いでごらんよ」と男が言うので、鼻先に煙草を

近づけると、甘く上品な何とも言えない良い香りがした。


「良いにおいだろ?ピースだよ、僕はこれが好きなんだ」

と言うと、彼も箱から1本抜き口にくわえた。そしてマッチを

取り出し、慣れた手つきでボッという音とともに火をつけた。


男が煙草を深く吸い込むと、その先端は生命を宿したかの

ように赤く光りながら、じりじりと音を立てて燃えていった。

しかしそれは、みるみる灰へと変わってゆく。

その白い灰は3cm位の長さまでくると、まるで命が尽きたかの

ように突然、ぽとりと地面に落ちていった。


「煙草はね、マッチで火をつけないとね、香りが死んで

しまうんだよ。ライターじゃあだめさ、マッチもね、この

燕印のマッチが一番だね」と鼻からブハーっと勢いよく煙を

吐きながら、燕の絵のついた赤いマッチ箱を僕に見せた。

そして新しいマッチ棒を出し火をつけると、僕に差し出した。

そして「さあ吸ってごらんよ、うまいよ」と微笑んだ。


僕は手に持っていた煙草を口にくわえ、彼の手の中で

ゆらゆらと燃える、その赤い炎に煙草をかざした。

そして、おそるおそる吸い込むと、突然口の中に何かが

入って苦い味がしたので、あわててペッと吐き出した。


「ハハハ、煙草の葉っぱが口に入ったのさ、フィルターが

ないからね、昔ながらの両切り煙草ってやつさ、もっと

ゆっくりと吸わないとダメだよ」と言って彼は笑った。


煙草を吸うのは久ぶりだった。今度は慎重にゆっくり

吸い込むと、煙で肺が満たされ、ニコチンが全身の

ありとあらゆる血管や細胞を通り、僕の体に中を一気に

駆け巡るのを感じた。そしてそれが脳に到達すると、

一瞬だけ重力がなくなるような、自分の体が地面から離れ、

風船のようにふわりと音もなく浮かんで空中を漂ってゆく

ような錯覚を覚えた。


僕はゆっくりと煙を吐きながら「うん、うまいですね」

と言うと、男は満足げにほほ笑んだ。


すると突然、うしろの方から声がしたので驚いて振り

返ると、さっきの屋台のおばあさんがこちらに向かって

何か喋っている。


「あんたらぁ、もうバスがないらぁ、わしとこ旅館も

やっとるでぇ、泊ってくといいだにぃ。すぐそこだでぇ、

わしの後についといでん。早せんとじき真っ暗になるにぃ」

と聞きなれない方言で僕たちに話しかけ、手招きをした。


僕らは煙草をゆっくりふかしながら、おばあさんの後を

付いて歩いた。目の前には、真っ赤な夕日に照らされ

チラチラと眩しく光る水面が穏やかに広がり、その上を

2羽のカモメ低く旋回しながら、ゆっくり飛んでいる。

突然訪れた夏の終わりを感じ取り、僕は感傷的になった。


僕は歩きながら、空に向かって消えてゆく煙草の煙を

ぼんやりと見ていた。煙草の先から出る煙は白いけど、

僕の口から吐いた煙の色は青紫のような色が付ていて、

かすかに煙の色が違うことに気がついた。


「旅館についたらさ、またあの大あさりを食べようよ。

あと10個はいけるよ」とおどけた調子で男が僕に向かって

言うと、おばあさんが「まんだ、食べるだかん」と言って

大きな声で笑いだした。僕たちもつられて笑った。

僕達の笑い声は、煙草の煙とともに、岬の空に

吸い込まれていった。(完)

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