第5話
エレナが、必死に真っ暗な光景の中で走っている。彼女の足音の他に、こつこつと、不気味な音が聞こえる。あの男だ。エレナを追いかけているのだ。エレナはとうとう転んでしまい、すぐ立ち上がろうとするけれど、背後のそばには男が立って居る。
目をかっと開いて、夢を見ていたことが分かる。どれくらい眠っていたのだろうか。体を起こす。僕の身体は湖の上にある。大きな、丸い水生植物を布団にして、毛の生えた一枚葉を毛布に、下半身に掛けられている。
なにか感じて視線を移すと、あどけない人魚たちが顔だけを水面から出し僕を見つめていた。彼女たちは「目覚めたわ、呼びに行かなきゃ」としきりに言い合って潜って行った。
僕は服を着ている。誰かが着せてくれたのか。起きたての重い体を起こすと、水草のバランスが崩れ湖面がちゃぷんとなった。
「おおっと」と間抜けに尻もちつく。
危うく水草ごと転倒するとこだった。
そういや、剣はどこにあるのだろう。
「剣ではありません。ハトちゃんです」きっと顔があれば、仏頂面に違いない声。
「悪かったよ。ハ、ハトちゃん」と僕はまごついて言った。
ハトちゃんは湖の岸辺の、砂地に突き刺さっていた。何か櫂の代わりになるようなものはないかと湖面を見渡す。手で焦いでみよう。それほど遠い距離じゃない。
水中に手を突っ込む。湖面が、ちょっと揺れ始めた。揺れは大きくなって、風吹く荒れた海の、波のようになった。覗く。あの大人魚のシルエットがある。それはあっという間に大きくなって、湖面を勢いよく突き破った。勢いは波になって僕と水草を岸辺に追いやった。
波はハトちゃんの刃を半分ほど濡らしながら、砂地に飲み込まれた。
「どうだ、体の調子は?」大人魚は腕を組みながら前傾して、僕を頭から足先まで眺めた。
「おかげで、ぐっすり眠れました。ありがとうございます」
「眠ったっつーか、気絶だぞあれは」
砕けた口調だ。「そ、そうですか」
大きな貝殻が、それよりさらに大きい乳房の中心をおおっている。まるで、彼女の身体は職人の彫った彫刻のようだ。
ハトちゃんを抜き取り。刀身を見る。「僕は、じいさんを殺してエレナを攫ったあいつを倒したいです」
「今はまだ駄目だ」
「僕が弱いからですか?」
「ああ。お前はこれから、盾を探しに行け。その過程で自分自身をよく見つめるのだ」
「盾」とぽつり呟く。
ハトちゃんを持った右手、空いた左手。そこに持つべき盾を求めて。
「盾はどこにあるのですか?」首を上げ、大人魚に言う。
「地下迷宮の最奥だ。入り口は幻影の森を抜けた先にある。幻影の森は、迷えば永遠の迷子になる」
永遠の迷子。
「良いかよく聞け。こつは心を平静に保つことだ。森ではお前を惑わすなにかや、声が現れる。それらに負けぬことだ」
大人魚の言葉を聞いて、背筋がぞくりとする。怖いが、怖がりながら行くしかない。
「わかりました」と僕は言った。
「本当にわかっているな。ワタシの言ったことを繰り返してみろ」再び、顔をぐっと近づけられ、長いまつ毛の下の瞳に睨まれる。
「心を平静に保って、幻や声に惑わされない」
「そうだ、よろしい」
顔が離れ、僕はほっと息をつく。
心臓の剣 @umibe
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