第4話

 横へ行ったり、斜め下に泳いだりして空気玉に顔を突っ込みながら、剣を目指す。苦しい僕とは反対に、魚たちは優雅に泳いでいる。胸びれ、背びれ、尾びれがひらひら、ひらひら。白いのや黒いの、それらが混じったもの、赤や黄色いのもいる。


 腕が重くなってきた。あと、もう半分のところまでやって来た。剣を抜けるだろうか。潜れるだろうか。ふと、じいさんとエレナの顔が浮かぶ。僕は深い深いところまで、手足を無様にばたばたさせ、ゆかなければならないのだ。


 水草を引くようにして、肺の限界まで向かう。限界になったら一番近くの空気玉に頭で触れる。水草はぬるぬるしていて、しっかり掴まなきゃあすべってしまうから気を付ける。


 人魚もいるではないか。四、五人ひとところに集った彼女たちは、僕の足元を見ておかしそうに笑っている。彼女たちの瞳は、あの大きな人魚ほどきりっとしていない。あどけない瞳だ。背丈も、僕と変わらないくらいだ。


 人魚という存在は、物語のなかでしか知らなかった。実際会ってみると案外感動はない。恐らく、僕の状況がこうでなければもっと驚いただろう。驚くだけの余裕がないのだ。余裕があれば、冷たい妖精が僕を導きにやって来た時点で素っ頓狂な声を上げたかもしれない。


 もう一息だ。あと少しで、剣に手を伸ばせる。

「主殿、主殿」と囁くような声。

 やっぱり君だったのか。湖底にて、錆び付くことなく佇む剣。

「はい。さあ、あたしを引き抜いてください」

 どうして、剣はこの距離になるまで語り掛けてくれなかったのだろう。

「それは、テレパシーを送っていることがシレンにばれたら怒られちゃうからです」


 訊ねたつもりはなかったが答えてくれた。なるほど、そういうことだったのか。シレンとは、あの巨大人魚さんのことだろうか。

 

 二、三回水を掻けば、届く。とうとう触れる。


 懐かしい気分が触れた手から瞬く間に全身を覆った。しかしその気分のでどころは、僕には全く見当つかなかった。


 足を岩に踏ん張って、思い切り剣を引き抜く。不安はあったが、剣はするり抜けた。


「お久しぶりです、主殿」と剣は言った。

 久しぶり。僕も懐かしい気分だ。でも、記憶はない。僕はフレイ。君の名前を教えて欲しい。

「ずっと前から知っています、フレイ。あたしの剣としての名前は心臓の剣ハート・ブレイドです」

 寂し気だ。

「ですが主殿はそれだと名前が長いからと言って、あたしのことはハトちゃんと呼んでいました」


 ハトちゃんか。あんまり良いネーミング・センスじゃないな。とは言え、僕がより良い名をつけられる自信もない。

「あたしは気に入っています。主殿がつけてくれたのです」

 そうか、なら良かった。


 剣を片手に、上へ泳ぐ。人魚たちが囁き合っている。

「本当に勇者の生まれ変わりなんだわ」

「あんな間抜け面なのに」

「ええ、本当に」


 ちょっと失礼じゃないだろうか。否定できないけど。

 泳ぎづらい。腕のみでなく全身が重い。もちろん剣も重い。自分の身体を誤って切らぬようにしないと。

「女の子に重いだなんて、主殿のほうがずっと失礼です」ハトは拗ねた様子で言った。

 君、女の子だったのか。

「声で分かりませんでしたか」

 今思えば、そうだな。抑揚はないが、高い声だ。

「今思えばって、主殿はやっぱり阿呆ですね」


 やっと水面へ顔を出した僕は、人魚へ向けて心臓の剣を掲げた。

「満身創痍だな、上がって休め」


 ぜえぜえ言いながら僕は湖を上がった。四つん這いになって、荒く呼吸して裸であるのを気にせず、仰向けに大の字になった。


 体の底に溜まっていた疲れが、どっと押し寄せてきた。鼓動がどくどく打っている。視界がぼんやりし始めた。狭くなって、暗くなる。まだ昼にもなってないのに。昨晩寝ていないのだから、これが当然だ。僕は眠りつつあるのだ。



 

 


 


 





 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る