追想 家族輪舞

 三年後。

 私はまだ手術を受けていない。

 技術的には可能だと診断されていたけど、それどころではなかったからだ。

 あれからすぐに子供を授かって、生まれてきたのは女の子。

 栗色の髪に茶色の瞳で、お肌はつるんとしている。

 そして、今、二人目がおなかの中にいる。

「奥様、お茶のご用意ができました」

「ありがとうございます。クロードさん」

 フランスの六月は日本と違って過ごしやすい。

 晴れた日の午後、城館のテラスでお茶をごちそうになる。

 クロードさんは日本語が上達して基本的な会話はできるようになった。

 私もフランス語はまだすらすらとは出てこないけど、相手の言っていることは聞き取れる。

 フランス語と日本語がごちゃ混ぜになるけど、どちらにしろ、もう、スマホはなくても大丈夫。

「じいじ」

「何をお召し上がりになりますか、クロエお嬢様」

 娘はよいしょと椅子に上がると勝手にマドレーヌに手を伸ばして自分で食べ始めた。

「こら、『いただきます』は?」

 マドレーヌをいったんテーブルの上にポイして手を合わせる。

「いたーきます」

 んー、素直でいいんだけど、まあ、しょうがないか。

「つわりは大丈夫?」と、ジャンが私にもマドレーヌを勧めてくれた。

「うん、今日はましなほうかな。それより血糖値が心配だからやめておく」

「何もしてあげられなくてすまないね」

「ありがとう。大丈夫。心配ないから」

 すると、半分だけでマドレーヌに飽きた娘が庭園の方へひょこひょこと遊びにいってしまった。

「ああ、もう。待ちなさい」

「わたくしが参りましょう」と、クロードさんが追いかけてくれる。

 追いかけられると分かっていると、娘もキャッキャキャッキャと大喜びで駆けていく。

「よっこいしょっと」

 おなかを抱えながら私も席を立つ。

「おいおい、座ってなよ」

「ううん。少し運動しないと。ちょっと行ってくるから待ってて」

 娘は庭園で木の幹に向かってペチペチと手を突き出して笑っている。

 お相撲さんじゃないんだから。

 と、思ったら、ドシンと尻餅をついてしまった。

「クロエお嬢様、大丈夫でございますか」

 手を差し伸べるクロードさんにつかまって立ったかと思うと、今度はズボンの裾で手を拭いてしまう。

「ああ、クロエ、だめでしょう」

「いいえ、奥様、ご心配なく」

 落ち着いた笑顔で砂をはたくクロードさんに、私は声をかけた。

「お父さん」

 起き直ったクロードさんが無表情になる。

「失礼ながら奥様、何か」

 私はもう一度同じ言葉を言った。

「お父さん」

 クロードさんが静かに笑みを浮かべる。

「小学生が教師に呼びかけるときの間違いにありがちでございますな。わたくしも覚えがございます。女性教師にお母さんと呼びかけて、『私はあなたのママではありません』と、宿題を倍にされたものでございます」

「クロードさんはジャンの本当のお父さんですね」

 表情を硬くしたクロードさんが庭園を歩き回るクロエを見つめる。

 しばらく待ってみても、答えは返ってこなかった。

「お母さんが……、アレクサンドラさんが言ってました。『愛し合って生まれた自慢の息子』だって。お母さんは肖像画の夫とは政略結婚させられて、そこに愛はなかった。なら、その愛はどこに……」

 クロードさんが人差し指を立てた。

「いけません、奥様」

「でも……」

 うなずきながらもう一度人差し指を立てる。

「ならば、年寄りの退屈な話におつきあいください」

 ため息をつきながらクロードさんが昔の話を始めた。

「ジャン様からお聞きになったのございましょうが、過去にはいろいろなことがございました。ですが、それはすべてもう過ぎ去ったこと。その結果が今のこの形なのでございます。みながそれを受け入れ、その毎日を生きている。それを今さら崩すことに意味はございません。本当の父親、血のつながり、法的な親子、そのどれにも意味はありません。ただの言葉遊び。今の姿が答えなのです」

「はい」と、私はうなずいた。

「あくまでもその前提でのお話でございます」と、クロードさんが静かに言葉を継いだ。「旦那様がお亡くなりになったあの日、わたくしはアレクサンドラ様と一緒ではありませんでした。わたくしは外に出ておりましたが、途中で引き返したのでございます」

「でも、それならどうしてお母様は自分の居場所を隠していたんですか」

「あの日、アレクサンドラ様はすべてを投げ出すつもりでわたくしを呼び出しておられました。日本で言う『カケオチ』のつもりだったのでございます。ですが、わたくしは約束の場所へ行きませんでした。最後まで迷いましたが、それが奥様のためだと身を引く決意を固めたのでございます。ただそのせいで、本当にアレクサンドラ奥様のアリバイを証明する者がいなくなってしまったわけですが」

「そうだったんですか」

「結果としてわたくしが奥様自身ではなく、そのお立場を守ろうとしたことが、奥様にとっては裏切りと思えたのでしょう。その瞬間、わたくしは教え導く憧れの対象から、ただの弱い男に成り下がった。夢はいつしか覚める。でも、そうでなければならなかった。目を覚まさせることも男の役目。それがわたくしなりの責任の取り方だったのでございます。奥様はすべてを終わらせることになされた。そして、城館を去ってお一人の暮らしを始められたのです」

 だから、お母さんにとってパリの街は『退屈な風景』なんだ。

 皮肉でもなんでもない魂のため息。

「わたくしもそれまでと変わらずジャン様にお仕えすることに決めた。その結果として、今の家族の姿がある。だから、この話はそれで終わりでよいのです」

「それがお二人の愛の形なんですね」

「愛の形に意味はありません。法は人を裁き、愛を罰する。しかし、人は愛を裁かず、愛は人を罰しない。形なきものであるがゆえに答えもない。だからこそ、形を決めてしまえばいい。本当の父親、それはお亡くなりになられた旦那様でございます」

 運河に白鳥が二羽漂っている。

 その後ろにもう一羽、間隔を保ったまま波を立てずに漂う。

「ジャンは気づいてますよ」

「まさか」と、笑みを浮かべながら静かに首を振る。

「私、聞いたんです。『素敵なネクタイの結び方を誰に教わったの』って」

 クロードさんが喉元に手をやった。

「彼、うれしそうに言ってました。『お父さんだよ』って」

「さようでございますか」

 長いため息とともにクロードさんが顔を背けた。

 娘がひょこひょこと歩み寄ってくる。

「じいじ」と、両手を伸ばして抱っこをせがむ。

 クロードさんがしゃがむと、娘はどこからちぎってきたのか、赤いサルビアの花を差し出した。

「おやおや、クロエお嬢様、お庭のお花を折ってはいけませんよ」

「プル・モン・グロンペール」

 ――おじいちゃんに。

「宿題を倍にいたしますよ、お嬢様」

 クロードさんはクロエを抱き上げると、テラスへ向かって歩き始めた。

「お茶が冷めるよ」と、ジャンが呼んでいる。

「はーい、今行きまーす」

 男と女とその息子。

 父と子と孫と。

 二つのトライアングルが奏でる音楽をのせて爽やかな風が吹く。

 鏡のような運河に澄んだ青空が映っている。

 空に形はない。

 木々にかたどられた色があるだけ。

 愛に形がないのも同じ。

 だから人が寄り添う姿に意味がある。

 それが私たちの家族だから。

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アラサー地味子@シャトーホテル/フランスでワケアリ御曹司に見初められちゃいました 犬上義彦 @inukamiyoshihiko

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